2017年4月16日 (日)

フェイク&ポストトゥル-4

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まえからの続き
今更ながら、ウソの’強制連行された朝鮮人慰安婦’報道を流し続けた朝日新聞はいまだ反省なく、さらには韓国にプラスになる記事は大きく取り上げ、逆にマイナスになるような記事は小さく隅っこに少ない字数で書き連ねるか、他紙とは真逆にあえて無掲載にするといった、なんとも如何わしい紙面作りは韓国第一主義の表れと映る。
朝日新聞はなぜ、日本に赤っ恥をかかせ、韓国内の反日運動を露骨に応援してまで、韓国に助け舟を出すのか、なぜ異様なほど韓国に想いをはせるのか。

あの時、つまり慰安婦報道のウソをやっと認めて木村伊量が引責した時に、朝日新聞社は自らがreset出来ていたなら、などと考えるのは所詮は野暮だが、元朝日新聞社の尾崎秀実の行動は、あるいは今に何かを示唆しているかもしれない。

尾崎秀実は日本で共産主義革命を目論んだ。
そのやり方はミンスクの松林における大虐殺と同じく、日本と支那を徹底的に戦わせて疲弊させ、マルクス・レーニン主義を芽生えさせるという、そこに共通してある人命の犠牲、不幸、悲惨は感傷心に過ぎず、プロレタリア独裁の共産主義世界を実現する必要経費と見下す<前記の崩壊、朝日新聞/長谷川熙より引用>、凄まじい考えも見え隠れしている。
そしてその残虐性は1972年、共産主義国家の樹立を目指した赤軍派にみられ、さらにポルポト、そして毛沢東にもみられ、それぞれ数百万の屍を残した史実に朝日新聞は時に肯定的な見解を書き残している。
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それらideologue者らは、言葉を変えると世界の共産主義革命こそが理想社会をつくると目論み、ideologyの変換を謀ったのと同じく、今の朝日新聞社も同様にideologue者と勝手に自惚れ、安っぽい自己保身術も併せ持ち、詭弁を弄し、同時にフェイクを立派な武器としているようだ。

余談だが、上田閑照は自著、「私とは何か」の中でも問いているように、例えばidentityという単語の根っこにも、私とは、そして我々とは何者だ、の問いかけがある。
愚生は集団的identityを鼓舞する気はないが、identityがもしも他者との関係から発した単語だとするなら、この朝日新聞においては、まず日本に対するidentityの否定が深層に潜むように思えてならない。
もちろんそれをして単純な善悪論でかたずけてはいけないが、かつて愚生がそうであったように、朝日新聞の読者はあらかじめ朝日新聞がのたまうideologyという強毒性の抗原に対する抗体を有して読まなければ、簡単に感染させられてしまう危険性大であろう。
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また朝日新聞は他紙よりも暗にintelligenceの高さを標榜するも、ただ単に日韓にchaosを演出し続け、前記の先見性,深慮に決定的に欠け、まるで憂さ晴らしの低俗な週刊誌の如き、韓国の中央日報、朝鮮日報の2紙同様に、読むに値しないどころか、害悪ですらある。

今更ながら、朝日新聞は読んではいけないと思う。
同時にもしも日本が朝日新聞の思惑通りの国家になったなら、愚生は日本から飛び出すであろう。

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2017年3月 6日 (月)

フェイク&ポストトゥル-3

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まえのブログの続き
挙句に韓国では日本の首相を呼び捨てにするのは当たり前で、日本に対しては何を言っても、やっても構わないとする朝鮮人のむきだしの思考方式は、更に嘘で塗り固められた’強制された慰安婦’をして、毒気をはらむ’性の奴隷/sex slave’と変換し、世界中にばらまいた。
それで韓国人は自尊の念を抱き、何故か狂喜するといった、不可思議なリワード・デリュジョン/妄想的報酬によるところの稚拙な集団行動は、ポストトゥルの典型的な例にほかならない。
これでは日本の国粋主義者らの血が騒ぐのもうなずけるし、冷静な自制心をもつ日本人もすでに我慢の閾値を超えているのではないか。

また中央日報、朝鮮日報web日本語版の2紙ともに自国を一等国、先進国と自賛しているようだが、政治、経済、科学分野の記事には日本に対して恨み、やっかみが滲み出ているのは、隣人としても忍びない。
それは単に自国民へのストレス負荷に過ぎないのではないのか。

今、日本では国と国、民族と民族は平等と教わるが、韓国では反日を声高に叫ばないと国会議員になれないお国柄、同じく過激な反日記事を書き連ねないと売れない新聞等々、まるで時計を止めてしまうが如き、韓国のみっともない国体は目に余る。
逆にTHAAD/ミサイル防衛システム配置による、中国から受ける数々の屈辱、露骨な嫌がらせには、卑屈なまでにだんまりを決め込むという、なんとも正反対の国体も内在するといった、整合性を欠いた民族性をいったい、どのように理解すればよいのだろうか。
或いは諭吉が心を痛めたのも韓国人のこんな民族性にあったのでは、等と勘繰りたくもなる。

今頃になって韓国内では、慰安婦報道は’嘘だった’の認識も一部のまっとうな韓国人の間には芽生えつつあるようだが、もう片方には’国民情緒法’なる、法律もあるから、さらにこじれる。
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これもまた、実にたちが悪い。
信じられないことに韓国では、法律の決め事よりも、自国民の感情が優先されるという、自らの社会の根幹となる決定事項すらも、感情によっては否定しても構わないことを意味する。

ならば当然、問いが生ずる。
ある集団の中で意見が二分した時、声のデカイ奴か、態度の横柄な奴つが勝つに決まっていることは小学生にも分かることだが、いったい誰の感情をもって、誰が感情的に裁くというのか。

さらに韓国人の民族性として、時には理性の否定も平然とやってのけ、自民族意識にそぐわなければ、平気でウソをつく習い性も兼ね備えていることは、日本に指摘されるまえに、何より上記2紙の認めるところでもある。
韓国ではもしや、ウソも日常的感覚の中に組み込まれているのだろうか、いやはや中世より進化をお忘れのような、何ともおぞましい生態を晒している。

韓国人が自らに突き付けてしまった、理性と感情の問いでもあろうが、これから国家として存続しえるだけの智慧、冷静さはあるのか、加えて今後の軍部の動きは?

朝鮮人を揶揄する気は更にないが、南北朝鮮の更なる経済、政情不安による、もしや朝鮮人難民、密入国者らがまた、他人の国へ土足で上がり込んだり、無分別に大挙して押し寄せて、例えば東海大学の金慶珠とやらの如く、傲慢に何らはばかることなく、ケンカ腰で、朝鮮人にも参政権をよこせだの、税の免除だの、噴飯ものの利己主張をなされたなら、などとは考えたくもないことである。

ほどほど懲りてしまった日本人は今、失笑と諦め顔で傍観するが、病み、混乱する韓国は果たしてここから何が生まれ、何を失うのか。

続く

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2017年2月24日 (金)

フェイク&ポストトゥル-2

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まえのブログの続き
’強制連行された朝鮮人慰安婦’報道の真偽を客観的に論ずるのに、左右ideology、国家間など、それぞれの立つ位置で、見事に意見が区分されるのも、ちゃんちゃらもおかしい。薄っぺらな嘘と、安っぽい打算が入り混じって繰り返される日韓の慰安婦報道には程々嫌気がさす。

まず日本。
既に言い尽くされているが、あえて書く。
朝日新聞紙上の吉田清治による、全くのでたらめな慰安婦報道、加えて松井やよりの、ばれなければそれでよしとする大うそ、「女性国際戦犯法廷」の大いなる欺瞞、植村隆の朝鮮人慰安婦に対する滅茶苦茶な特ダネ報道等々、どれをみても、後世の史実に基づく客観的評価には到底、耐えられそうもない論陣を張っている。
朝日新聞の根っこにあるのは、或いは淘汰されずに遺残する、ばかばかしいほどのマルクス主義もどきなのか、そしてその為にはフェイク&ポストトゥルを用いて自国家をおとしいれても構わないと考えているのだろう。

今さらでもないが、秦郁彦はその著書「慰安婦と戦場の性/新潮選書」の中で、朝日新聞の大嘘を見抜き、さらに元朝日新聞記者の長谷川熙は、自著の中で、「思い込んだある観念から日本を裁き、反日連携まで海外と企て出す習癖は、その一点で尾崎秀実/おざき ほつみと松井やよりはうり二つ」と最大級の批判をしているのが目につく。<崩壊、朝日新聞/長谷川熙/p160より引用>
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一方、朝鮮である。
韓国の中央日報、朝鮮日報のweb日本語版には、日本語の識字力には脱帽するが、日本に対する、おどろおどろしい罵詈雑言で溢れかえっている。
それら論説委員らの資質、能力を問い質したりはしないが、あまりにも感情抑制を欠いた運筆である。
加えて上記、朝日新聞の吉田清治、植村隆の強制慰安婦報道はフェイクと薄々知りつつも、これを日本たたきの最大の武器として、よく飽きもせずに連日、畔のカエルの鳴くが如くに、謝れ、謝れの連呼である。

それで悦に入る韓国人の奇異な幼児的習性と、何かにつけ日本と比較して勝ったの、どうのと日和見的な活字を羅列する悪しき習いは、いまだ改められないようだ。

例えば、AI/人工知能と韓国人を比較しては失礼だが、AIは自らが学習することで性能を向上させるが、リワード・デリュジョン/妄想的報酬をAIに与えると、麻薬に陥るように中毒を起こし、誤った目的を追い求めてしまうらしい<山川宏/述>。

それと同じく、おそらく大多数の韓国人のいだく、’日本憎し’の渦中に、蜜の味のする妄想/delusionが投げ入れられると、集団狂騒とでもいうべき中毒症状がメディアと韓国人に表れる。

それで自分らが優位に立った気分になり、承認欲求が充たされ、reward/ご褒美にあずかるといった思考回路のようだ。

そんな韓国の、みっともない自己愛的集団のような、ばかばかしい行動・・・、これはたして日本人だけの視点なのか。

次に続く

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2017年2月17日 (金)

フェイク&ポストトゥル-1

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矢次一夫の暗躍した時代、そして執筆した諸々の本は確かに面白い、だが信用ならない。
時流を読み切る優れた能力をして、時々の政権中枢に寄生し蠢めいたが、もし自著がfiction or non-fic,かと問われたなら、返答に窮したに違いない。

世論工作のために知識人を貶めることなど、朝飯まえだったのだろう。例えば、西田幾多郎をして没後、戦争協力者に仕立て上げたのも、矢次一夫によるウソの記事だったことが後に判明するが、そこに愚かなことだが文化人と称する大宅壮一/猿取哲が登場し、軽薄にも勝ち馬に乗るが如くに、矢次一夫の悪意に満ちた記事を論証もせずに、「西田幾多郎の敗北」と題して、それ以上にねつ造した記事を出してしまったから、戦後のマルクス主義者らは、西田幾多郎排撃のキャンペーンを始めたらしい。

魅力的であり、難解でもある西田幾多郎の哲学を、愚生ごときが理解できたとは到底思っていない。果たして矢次一夫はその哲学をどのように読み、解釈したのか分からないが、時流に対して西田幾多郎の全人格の否定を伴う、ウソの記事をもって対峙さた。
後世の論証には耐えられそうにないウソでもって、哲学者をして戦争協力者に仕立てることに、いか程の意味を見いだしたのか、そして業績の否定にまで及んだのだろうか。
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上田高昭は、自著に「そのような叫びの裏には、従来の絶大な評価に対する、いわば偶像破壊の喜びを、感知する・・・」とまで記載している<上田高昭著/西田幾多郎の姿勢-戦争と知識人//中央大学出版部発行、p154,156,170,230より引用>。

余談だが、加藤周一すらも西田幾多郎をして戦争加担者と思っていたふしがあるようだが、今風に言えば悪質なプロパガンダであり、陰謀であり、フェイク/fake、つまりウソ、ねつ造、である。

さて世界は、フェイクニュース/fake newsで満ち溢れている。
手っ取り早い攻撃目標は、やはりトランプだが、攻撃された大統領も黙っちゃいない。
'any negative polls are fake news'と、丁々発止のやり合いが当たり前にあり、フェイクニュースサイトが立ち上がり、facebookで拡散し、広告収入が入るという、立派にビジネスが成り立つご時世のようだ。
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それ以上にたちの悪いのが、ポストトゥルー/post truth。
その’意’は客観的な史実そのものより個人の信条、民族的な感情へと訴えたほうが政治的に影響力もあり、世論が形成されやすく、都合のいいものだけを短絡的に妄信させる手法らしい。
為政者にとって、こんな便利で都合のよいツールはない。信長、秀吉、家康どころかww2でも立派な戦術の一つとしてポストトゥルーは用いられたようだが、今’それをやったらおしまいよ’といわれる禁じ手である。

そんな卑怯な手法は21世紀にはないと思っていたら、韓国にある。
例の朝日新聞が行った、典型的なfake報道である’強制連行された朝鮮人慰安婦’をして、韓国ではポストトゥルー/post-truthの格好の餌食とした。
もしも本当に、韓国人が声高に云うところの、朝鮮人女性を強制連行して、無理やり慰安婦にしたのであれば、それは大変な犯罪であり、それこそ日本国内でも批判の声は大きく上がるはずである。

だが実際は日本だけでなく、当事国である韓国内でも’強制連行された朝鮮人慰安婦’などいないことは、常識人であれば皆、知っていることでもある。

韓国という国の裏には、こんなわざとらしいウソを引っ張り出して、ポストトゥルーをやってのける、なんとも悪質な性向も潜むようだ。さらにはもっともらしくニセの慰安婦まで登場させ、挙句に集団ヒステリーに陥る韓国人の民度の低さは目に余る。

ことの本質は国家間の問題ではなく、左右イデオロギー問題でもなく、ましてや人道の問題でもない。

次に続く

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2017年1月25日 (水)

源氏断章

・・・
宮本常一は「土佐源氏」の中で、
ここは土佐の檮原/ゆすはら村にある、橋の下の乞食小屋のいろりの火がチロチロ燃える炉端で、八十をかなりこえた小さな老人があぐらをかいてすわっている。イチジク形の頭をして頬はこけ、破れた着物の縞も見えないほどに汚れている。
・・・・・
「しかしのう、わしは八十年何もしておらん。人をだますことと、おなご(女)をかまう事ですぎてしまった。・・・あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。
とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。
・・・・・
また牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出会うと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう(ママ)。<忘れられた日本人/宮本常一著/岩波文庫/p157-158より引用>

さて後世の識者らは宮本常一をしてやれ民俗学者だの、何とか学者だのと気楽に比較する習性があるようだが、21世紀の空調の効いた研究室で、アンドロイド人形が述べるが如き所見には、時代のかもす匂いも、空気のよどみも感じられない。
まるで優等生の答案のような、その無味無臭な所見は、愚生には著者の深奥を消去しているようにも思われる。

余談だがこの宮本常一がついに聞き出したとされるこの言葉は、船曳建夫の「日本人論再考」に、光る言葉として引用され<nhk人間講座2002年6-7月期/p77-78/日本放送出版協会出版より>、同じく佐野眞一はこのこの言葉を宮本常一の代表的傑作とたたえ、盲目の元馬喰/ばくろうの想いは宮本常一の想いに通ずるとして、その筆致はすこぶる強いように思う。<宮本常一が見た日本/佐野眞一著/p19日本放送出版協会出版より引用>
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ただ「土佐源氏」をしてfiction or non-fictionなのか?或いは宮本常一に敬意を表して学術なのか、文学書なのか、の疑義もあるらしいが、もしやchapterに’源氏’を冠したところからして、衆生のeros & thanatosも含意する小説として読めなくもないが。

もちろん谷崎潤一郎好みでないのは明らかであり、九鬼周造の感性に至っては、はなはだ迷惑千万と怒れること然りだろうが、譲れるはずもない人生哲学の対象を、牛とおなごと定めて生き抜いた老人の弁であろう。

人間の物差しは違ったほうが格段に面白い、だから文学は読まれるのか。
また矜恃を持つ価値観は他者から乖離するほどに味わい深いが、そこにはまた同じくらいの苦悩も行間にただよう。
ならば文学の醸し出す問い、そして真の味わいこそ、行間にあるのかもしれない。

  人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 我は行くなり  

                            西田幾多郎書

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2017年1月11日 (水)

バクチ打ち

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歎異抄より、
「たとひ法然聖人にすかされ まひらせて 念仏して地獄へおちたりとも さらに後悔すべからず」(第二節)の有名な句では、信仰が一種の’賭け’になっている。
信仰しても救いがあるかどうかわからないけれど、もし救いがあるとすればそれしか方法がないから、親鸞はそれに’賭ける’ということらしい。<語りおくこといくつか/加藤周一著/かもがわ出版/p128-129より引用>

また善信坊は法然を理由なしに信ずることができた。
逆に人間に対して、証拠を求め、理由を求め、保証を求めるならば、その人間に対する疑惑は尽きない。
証拠がなく、理由がなく、保証がなくても信ずるのは、だまされる覚悟をするのと同じことだ。だまされぬ為には、信じない他はない、信じなければ人格と、人格の接触はおこらない。
つまるところ人間関係もまた二者撰一、それは理性的にはありえないから一種の’賭け’である。<現代日本文學大系82/筑摩書房発行/加藤周一、中村眞一郎、福永武彦蓮著/p166より引用>
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遠くフランスのパスカルはパンセの中で、これも有名なpari/賭けという単語を用いて、明快に説いている。
神はいる、に’賭け’れば死後、神に高く評価され天国決定かもしれない、つまり天国行チケットの確率は50%。
逆に神はいない、に’賭け’れば、そして神がいなければ、天国も地獄もないけれど、もしも神がいれば怒られて地獄に落とされ、天国行チケットの確率は0%。
だからパスカルは神を信ずるというのがパスカルのpari。<世界の名著29、パスカル/責任編集、前田陽一/中央公論社出版>

人間として、どうしても知りたいことがありながらも、なんとしても分からない時、’賭け’に出るよりしようがないという、追い詰められた人間のぎりぎりの選択、よって戦争になり、徴兵されるとフランスの若い兵士の間ではパスカルが読まれるらしい。
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これら親鸞の歎異抄における’賭け’及び、法然に対する’賭け’、そしてパスカルのいう、pariの共通点をして、加藤周一はそれこそが宗教的な思想のいちばん深いところにあるものでは、と重く残してくれた。

加藤周一によるところの、まさに’賭け’から、不条理なるが故に我信ず/credo quia absurdumという格言を誘引するに至る、論旨を煮詰める手法は実にお見事であり、読者をいまだに唸らせ続ける。

だが巷には、同じ’賭け’をして、あたかも政治的ideologyの対立の如きに、何故か保守主義者だけが経済発展の為とうそぶく、からっ風が舞うのもまた、日本的原風景でもある。

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2017年1月 1日 (日)

ヒトデ釣り名人のぼやき

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カレイ釣りをしていると、時々ヒトデが掛かる。
他の釣り師にはあまり掛からないのに、なぜか愚生の竿によく掛かるということは、どうやら相性もいいのだろう。
ヒトデの裏面をよく見ると、真ん中に口らしきものが備わっており、釣り針が飲み込まれているのを見ると、ヒトデにも喰い気のあることが分かる。ならば食欲本能とともに、天敵がよく使うであろう疑似餌などの戦略的な武器を見分ける能力も有していなければ、今まで生きのびてはいなかったに違いあるまい。
ようは’意識’も備わっていなければ、生物としては失格であろう。
ならば優劣はどうであれ脳神経回路、コネクトームが作動する脳神経細胞があるのかもしれない。

イントロが長くなった、ようはヒトデに意識があるのか?
愚生は「有」意識と思う。
さて現在のAIレベルは、まだヒトデの脳神経回路にすら達してはいないのだが、人間は食物連鎖のてっぺんに座し、さも偉そうに「無」意識というおそろしい単語を汎用する。
そんなとてつもない矛盾をはらんだ広莫たる「無」意識を以下に意識してみたいのだが、はたして・・。
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井筒俊彦著作集、9/東洋哲学/p110,111より以下に部分引用する。
「神、光/オールあれ、と言えば光があった」、光に続いて様々に異なる「名」が、森羅たる万物が。旧約聖書的世界表象において、光は存在文節の原点、全存在界の始点、「無」から「有」への、カオスからコスモスへの転換点、である。
この光あれという、コトバの存在喚起力は絶対無文節的意識においては、まったく働いていない。
意識のこの無文節的深層の暗闇の中に、コトバの光がゆらめき始める。すると今まで「無」意識だった意識が「有」意識として文節し、それを起点として、存在の自己文節のプロセスが始まる。
そして、その先端に、万華鏡のごとき、存在的多者の世界が出現する。
意識と存在の形而上的「無」が、こうして意識と存在の経験的「有」に移行する、この微妙な存在論的一次元を、東洋思想の渾沌、西洋のカオスに・・・・。

荘子のような思想家にとっては、渾沌、窮極的には「無」こそ存在の真相であり、深層であるのだから。万物が、いかにも取り澄ました顔付でそれぞれ己れの分を守り、各自があるべき所に位置を占め、互いに他を排除することによって自己を主張しつつ、整然たる存在秩序の空間を形成している。
それがいわゆる「現実」というものだが、そんな既成の秩序を取り払って全てをカオス化し、そこからあらためて現象的多者の世界を見なおしてみる。そこにこそ存在はその真相、深層を露呈する、と荘子は言うのだ・・・etc。
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荘子は現代人にこんなものですと書き残しているが、「無」意識と「有」意識のはざまに揺れる陽炎の如き愚生にとって所詮、「有」意識から「無」意識を意識している限りにおいては、などと書いては出直して来いとお叱りを受けることになる。
全ての根源は渾沌、既成の秩序を取り払って全てをカオス化し世界を見なおせと言う。
今さら書くまでもないことだが荘子の思考の中心には渾沌が居すわる。

さて13世紀の禅者たちが挑んだ、二項対立の超克という宿題/overcome all possible dichotomiesを、例えばそれが「無」、「有」の壁の撤去だ、常住、寂滅の壁の撤去だということなんだ、まだそんなことも解からないのかと、ヒトデは愚生を意識する。
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愚生、只座っていれば足は痺れて、そのうちsiestaを楽しむこととなる。
これがまた実に心地よい、喩えば船上で陽光を浴びながら釣り竿を持ち、siestaを楽しむ我釣りのお作法は、ヒトデの「有」意識に対する、愚生の夢うつつ的「無」意識の対峙であり、簡略化すれば「有」、「無」は釣り糸で繋がっていると安直に考えたりもするが、禅的にはそれではいけないらしい。
もちろんだが愚生の夢うつつ的「無」意識とは、荘子のいう本来のそれとは、比較すらはばかられるものであることは重々承知のつもりだが、荘子の真相、深層の完全な理解にはほど遠い。

畢竟ヒトデがのたまうように、「有」意識と「無」意識の区別は、とどのつまりないんだと書きなぐれば、印可の偽証に相候、・・・喝破される事然り。

「無」意識とは分からん、もしも正解がみつけられたならいつの日にか・・、ここに愚生の未熟な能力の限界をさらし、新年を迎えることとなった。

あけまして おめでとう ございます

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2016年12月 7日 (水)

鍋こわし怪説

2009年、冬、調教中
北海道のこの時期、旬の美味い魚は誰が何と言おうとイソカジカである。それを釣るべく何度も竿を垂れるが、下手な愚生には釣れない。

たまに掛かったイソカジカの腹腔内には、腫大したオレンジ色の肝が、体重比で最大の臓器として最初に目に入る。これをぶつ切りにして身共々鍋にする、これが形容しがたい絶妙なお味で、多くの痴的な釣り師はこれを「ナベ壊し」とぶち、それぞれが一家言を持つ。

同じ肝でも卑しいフランス人が泣きっ面のガチョウに高カロリー食の強制給餌で創作された、フォアグラと称される病理学でいうところのりっぱな脂肪肝よりも、このイソカジカの肝のほうがはるかに美味い、これ請け合いである。

余談だがこのイソカジカの鍋を、食通と称された魯山人が喰ったなら何と言っただろうか。
魯山人著作集の中の、自身がニューヨークのイタリア料理店で食したソーセージとタラのから揚げを激賞し、さらに大使公邸で馳走になったシーバスのお刺身も同じく褒めたたえている数行に、愚生は大いなる疑問を呈したい。

そもそもタラのから揚げなるものは所詮、イギリスなどにみられる、腹を空かした味覚音痴らが喰らうジャンクものの類であり、シーバスのお刺身にいたっては三流以下のそっけないお味だ。
2009年、-15度、オシッコ
思い起こすと今のイギリスと違って、愚生の知る1970年代ころのイギリスの飯は本当にまずかった。
フランスと違って、イギリス訪問者の多くは大英帝国という巨大なパワーの根っこに、文化としてのとてつもなく不味い料理が共存することを叩き込まれ、つくづく日本の良さを実感させられた。
美食という人間欲求の一つを欠くことに、一度ならずも文化的整合性を問うのは常としても、文明と料理はパラレルなものと考える日本的常識人は皆、アングロサクソンに悲哀を伴うショックを受けたはずだ。
仮に北海道の漁師にそれを喰わせたなら、
「こったらもの、気の木っ端と同じだべぇ」と怒ること間違いない。

少し脱線したが、魯山人の風雅、風流に対する審美眼はさておき、味覚のセンスには正直、大いなる疑問あり、などと書いたら叱られるか?

イギリスを引用したついでに漱石から、これも有名な数行を拝借する。
100年前にイギリスを診て、喰って、そして学んだ漱石は帰国後、「はじめて海鼠/ナマコを食いだせる人はその胆力において敬すべく、親鸞の再来とし、はじめて河豚/フグを喫せる漢/おとこはその勇気において重んずべく、の分身なり」、と’吾輩は猫154’の中で、お茶目に表しながらも、その舌鋒はすこぶる鋭い。

こんな漱石の絶妙なるつっこみに親鸞は、或いは大笑いの呈にして、日蓮は、或いは顔を真っ赤にして、怒気鋭く過激な論理を並べたてるやもしれないが、干瓢/カンピョウの酢味噌味しか知らない天下の士たる、苦沙弥先生に至っては、正直なニャンコロにひっかかれ、噛みつかれている。

愚生は、この苦沙弥先生をイギリス野郎と解く。

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2016年11月 4日 (金)

知床、ウトロでカレイ釣り

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カレイ釣りの前日に、餌は「ホタテ貝の耳」を用意するから餌は必要ない、’もってくるな’と船長直々の厳命を拝受、本日まだ暗い中、知床はウトロ漁港より愚生一人を乗せた釣り船が出港する。
釣り場に到着して朝ぼらけの中、船長より差し出された「ホタテ貝の耳」なる初見の餌は半氷状態のポリ容器に入っており、取り出して釣り針に付けようとするが上手く付けられない。
慣れているはずの船長も何やら、かなり悪戦苦闘している様子だが、なんとか針に餌を付け、仕掛けを落とし込む。愚生も遅れて、こんなもんかと釣り針に餌を付け、釣りをはじめる。
やがて東方、知床半島先端辺りの水平線がくっきりと表れ、終秋の寂光にしばし見とれる中、周りの釣り船の無線情報では釣れているらしいが、こちらの釣り船に魚信なく、小一時間も経過する頃に船長は外道のデカいタコを釣り上げる。
だが愚生はまったく釣れず、巻き上げて餌を見ると「ホタテ貝の耳」なる餌のシッポに、カレイの歯型がくっきり残っているのに心騒ぐ。
そして夜が明け、釣れない原因が腕だけではないことが判明する。
船長が冷蔵庫から取り出してきたという、その餌をよく見ると、なんと薄くきざまれたタケノコであった。さっそく船長は携帯電話を取り出して奥方様へ、まるで人格が入れ替わったように平身低頭の態、普段の厳ついお顔が、そして先程まで釣り客に命令調だった漁師特有の、語気の荒いお言葉が人前にもかかわらす、妙に優しく激変する様子を観察する。
さては’かかあ天下’なのか、などと邪推はすまい、どうやら、お内儀様に怒られる怖さゆえなのか、釣り客にタケノコを餌にして釣りをさせた罪悪感など微塵もないらしい。
寒漁村に生まれ、オホーツクの荒海に体を張って生きてきた善良で朴訥な船頭なのか、’他者に謝る’ということなど、はなっから存在しない生き様とお見受けする。
だが海より怖いものをわきまえている、それでよろしい。

以上、一時間足らずの知床釣行であった。

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その後一人、朝っぱらから一番風呂に浸かり、至福の時を過ごす。
岩尾別温泉の露天風呂にて、背に眼下の渓流より吹き上がる寒風を受けながら、加藤周一著/三題噺/ちくま文庫を心地よく読む。

石川丈山、一休宗純、富永中基ら三者それぞれ、常日頃の、仏者に宿るerosの神の、そして識者の、組み合わせからなるfictionならではの妙味は、加藤周一が醸し出す深慮に愚生を引き込む。
同じく、今日の間抜けな釣り師と、タケノコを喰らう、おバカなタコと、トンチンカンなカレイの三題噺は、落語にもならない浅慮のnonfic,の噺。

本書より気になる行を少し引用する。
例えば「心」、という言葉、「心を先にするか、詞(ことば)を先にするか」などという、その「心」の意味がはっきりしていなければ、問いそのものに意味がない。しかし「心」とは一体何ですか。「意」か、「気」か、「情」か・・・。

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2016年10月28日 (金)

ボブ・ディランの悩み

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ボブ・ディラン/bob dylanのノーベル賞受賞といえば、ある種の神格化されたイメージが付きまとう。
古代ギリシャ、ホメロスの詩と、ボブ・ディランの歌詞は同格と言う人もおり、一時期ボブ・ディランはその名声をうまく利用し、金にはなったがやがて独り歩きを始め、中身は空っぽになり、名声は人生だけではなく、作品もゆがめたことを知る。
また、「昔の私は世界と人間のあらゆる真実を歌で表現しようとしていたが、時が来れば、できっこないと分かるものだ」とも言い、その半生は自分を自分に説明するために彼が張り巡らした神話の集積だった(以上、デビット・ゲーツのボブ・ディランのノーベル賞受賞に関する論評をニューズウィーク日本語版/2016/10/25号,p24-27から引用)。
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一方、ミュージシャンであって詩人ではないディランの歌詞は音楽なしでは物足りず、後代に向けて訴えてきたことは、村上春樹やフィリップ・ロスの物語よりも壮大かもしれないが、文学という定義にも反している。文学とは静かに自分に向けて読むものであり、静寂と孤独は読書と不可分の関係にあり、読書こそが文学に向かう唯一の道である。さらに哀れな知識人はしばらく世界の重要性について考えているふりをするが、その間に大切な何かが失われていく(スティーブン・メトカフのボブ・ディランのノーベル賞受賞に関する論評を同じく、ニューズウィーク日本語版2016/10/25号,p16より引用)。

等々、異見をならべてみたが愚生はボブ・ディラン自身にとってノーベル賞は不必要なものなのか、或いは害悪とでも思っているのか、なんてことはどうでもよろしい。

余談だが一点、ボブ・ディランのいう’人間のあらゆる真実’、この西洋で言うところの’真実’とはいったい何か。ついでに移り行く多様な’事実’はどのように位置付されているのか、そしてどのように削除されているのか、facts & truthの齟齬にこそ文学の旨味を実感する愚生には、ボブ・ディランのきれい過ぎるとも思える思考に異臭を嗅ぎ、エネルギッシュな60年代の、学生運動華やかしけり一時代に聴いた歌も、21世紀の今にいたっては、なんとなく窮屈感も伴って聴こえてしまうのは愚生だけだろうか。

話が過ぎた、’真実’にもどる。
東洋に住む愚生にとって、例えば親鸞のいうところの仏性につながる’真実’、例えば「如来は 即ち これ真実なり」の言葉の中に、なにか心にすとんと納まる響きがある。

さらに一遍さんなら、一切そんなもの、東西のsectionalizeされた思考法なるものも含めて’捨てっちまいな’と言うのだろう・・にしても、しょせん無手勝流で大根を切ったそれぞれの切り口を診るが如きで、例えそれが名刀であれ、錆刀であれ、同じ形はあろうはずもない。

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