2019年7月29日 (月)

現代版のオセロ

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オセロ/othelloの第三幕、第三場といえば、あのイアゴーが詐欺師的な御託でもって、黒人将軍オセロを手玉に取り、若妻デズデモーナの不貞を信じ込ませる有名な場面で、シェイクスピア/shakespeare劇の見どころの一つだ。
例えば、与えられたテーマこそ違うが、忠臣蔵の全篇に流れる内蔵助の、心模様の移ろい同様に、愚生の如きはいまだ飽きもせず、ついつい見て、読んでしまう。

もちろんシェイクスピア劇から、シェイクスピアの、人となりの人生観、哲学、宗教観といった、くだらないことはさておいて、人の世のすさびを知る上でも、せめて高校時代までには、読破しておきたい脚本家の一人だ。
政治家にして、そして戯曲、脚本家にしても、それぞれの守備範囲はもちろん異なるが、そもそもシナリオライターとして最低限のマナーであろうところの、複雑な要因、起こりうるすべての事象を想定、思案しなければならないことは、小学生でも理解していることである。
あえて書くまでのことでもないが、それはいかなる職種でも同じことで、例えるなら難破を想定していない船乗りなんて、いる筈もない。

しかし所詮は人のやること、時には狂うのが人の世の、また面白いところでもある。
同じイギリスには、キャメロン/davit cameronという前首相がいた。
こやつ、一言で表すならタワケ者、もしくは間抜けな男、などと言ったなら礼を失するので、ここでは’能天気者’と書き変えよう。

この’能天気者’、言うまでもなく、今のイギリスを大きく揺るがす、EU離脱問題(brexit/britain & exit → brexit)の提唱者だ。
難問中の難問であり、不問とされたEU離脱の是非をあえて問い、火に油を注ぐが如くに、イギリス全土をchaosのどん底に追いやった主犯だ。
首相として舵取りを任されたキャメロンの無思考、無定見な脚本は明らかに、誉れ高い大英帝国をただ疲弊させ、衰退へと導くものに過ぎなかった。
まさしくキャメロンは自ら、現代版のオセロ役を演じる羽目になる。
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余談だが、そのたぐいの’能天気者’は日本にもいた。
8代将軍、足利義政もその一人で、勃発した応仁の乱は後々、十余年も続いた中世のchaosと言われ、京都の市中は内乱で破壊され尽くすも、首謀者宅では日々、贅を極めた酒宴が繰り返されていたとあることからして、他国事ばかりではない。

よってイギリス議会は、離脱賛成派と反対派の真っ二つに割れ、両論相譲らない、ガチンコ勝負の修羅場と化すのは必然だが、他国からはどう見ても、三流の茶番劇としか見えない悲壮も伴う。
時に大根役者が大見得を切って現れるが、しょぼしょぼと消え去る繰り返し劇には、さすがにもう、うんざり感がただよう。
昨今、またもや首相が入れ代わったが、今度は強烈な自己顕示欲の塊のような政治家(boris johnson)が登場した。しかしこやつも長続きしそうにないことは、誰が見ても、おおよそ想像がつく。
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みっともない痴話ゲンカもどきの現象はまるで、ソフォクレス作、アポロンの神託を受けたオイディプス王の、内なる悲劇、破滅へと進む、ギリシャ悲劇/greece tragedyと同列などと言ってはいけないが、周囲の国々の嘲笑をよそに、キャメロンの脚本による帝国の衰亡劇は今まさに、難破船の如きに大揺れしている。

浅慮な行為がやがて地獄へといざなう心模様を、オセロに見事に演じさせたシェイクスピアがもしも存命だったならば、同じく浅慮な思いつきだけで国家をchaosへと追いやるキャメロンの心模様を、はたしてどのように脚本しただろうか。

あるいはオセロと違って嫉妬、懺悔の欠片もない...義政のように・・・。

まぁ 気楽な人生も また然り ではあるが・・・

                漫筆

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2019年4月 1日 (月)

万葉そして令和

Imgp25661_2 早速、書棚から萬葉集・二(小学館/昭和47年発行/小島憲之・木下正俊・佐竹昭弘校注・訳者/p,67より以下引用)の中から、’令和’の語源となった’令月’を見つけたので以下に。


まず、これは萬葉集巻第五/雑歌/815であること。
そして大宰帥大伴卿の宅(いへ)にして宴する梅花(ばいくわ)の歌三十二首/併せて序であること。


歌は次の通り、下には現代語訳を、共に引用する。
天平二年正月十三日に、帥老(そちのおきな)の宅に萃まり(あつまり)て、宴会を申(の)ぶ。
時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和らぐ。
梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(ばいご)の香(かう)を薫(かを)らす。


しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾く、夕の岫(みね)に霧結び、鳥はうすものに封ぢられて林に迷う。庭に新蝶舞ひ、空に故鴈帰る。ここに・・・・


この序の作者について、大伴旅人。山上憶良・大宰府の何某官人など諸説あるが、旅人自身とみることは無理があろう。日付は太陽暦に直して二月八日、帥老(そちのおきな)は旅人、この時66歳、申(の)ぶは、のべる、開くの意、令月(れいげつ)は、よい月、ここは正月をほめていった。気はあたりの気配、鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)は、梅の花の白さを女性の鏡の前の白粉(おしろい)にたとえた。蘭(らん)はよい香りの草の総称。
珮(ばい)はジャコウや香木の類を袋に入れ、腰に下げたもの。後は対句として用いた字で意味は軽い。
羅(うすもの)は、うすもの、うすぎぬ、蓋(きぬがさ)は、貴人にさしかけた、柄の長い傘、岫(みね)は峰、山頂の意、うすものは、うすぎぬの類、新蝶舞ひ、空に故鴈帰るは、去年、渡来した鴈。新蝶に対して、この鴈は春になったので北方へ帰る。
Imgp23721_1 要するに、お正月の良い月、気は良く風は穏やか、梅はあたかも鏡の前の白粉のように白く咲き、蘭は匂い袋のように薫っている。そればかりではない、夜明けの峰には雲がさしかかり、松は雲の羅/ベールをまとって、蓋をさしかけたように見え、夕方の山の頂には霧がかかって、鳥はその霧のとばりに封じこめられて、林の中で迷っている。庭には今年の新しい蝶が舞っており、空には去年の雁が帰って行く。ここに・・・・(以上、p,67より引用)


変換の困難な旧字、語句は臨機に応じたつもりだが、万葉びとの豊かな感性、味わいは、やはり日本人の宝物、愚生は勝手ながら、「初春の令月にして、気淑く風和らぐ」に続く、「しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松はうすものを掛けてきぬがさを傾く...」を、一息で諳んじてこそ、より一層、’令’の今日的な意味合いが増すようにも想う。


余談だが、別の切り口で梅原猛は、自著「梅原猛著作集13/万葉を考える」で、万葉集の根本問題として、デカルト的方法-直感から体系へ、直観-人麿の死の姿、演繹-水底の歌etcが目につくが、こちらの引用はあえてひかえることとする。


’令和’、とりあえず、めでたいとしたい。

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2019年3月31日 (日)

アイヌと親鸞とAI

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書棚にある、「序説」と名の付くもので最近、再読したものには加藤周一の「日本文学序説」上下2巻、そして梅原猛の「人類哲学序説」がある。
特に加藤周一の「日本文学序説」上巻は、旅先の露天風呂で一緒に湯船に浸かることしばし、よって少しふやけている。

これら名著それぞれに底通する過去、現在の日本人の心をあぶりだす見事な手法で、日本人のこれからを問う切り口は、他書でなかなか味わえないものがある。

まず加藤周一は、「もしヒトが生き残るとすれば’宗教’なのかもしれない」と書き残し、’科学’に対する拮抗薬として’宗教’をあげ、問う姿勢は確かに新鮮だがさて、ヒトもレミング同様に抑制の効かない動物であり、加えて毒を摂取し続ける悪癖は動物以下だが、さも偉そうに自由だの、権利だのと宣う、ある意味ではサルにももとる習性に対し、はたして’宗教’なるものに如何程の薬効が期待出来るのだろうか。

一方の梅原猛は、現代科学は西洋哲学に後押しされたものと考え、その根底にあるキリスト教文明の限界と言うよりは、キリスト教は死んだ、これからは「一切衆生悉有仏性」のような、東洋の仏教的な考え方が必要だと確信している。

余談だが、梅原猛はここ北海道にも来られ、アイヌのエガシ/古老と何日も膝詰めで聞き取り、彼らの生活、祭儀の中に沖縄と同様、古代より営々と続く汎神的宗教性を嗅ぎ出す。それはアイヌ期を遡る縄文期、或いはそれよりはるか以前から日本に連続する思考だとしている。

梅原猛の他書より以下に、引用する。
アイヌのエガシ/古老が曰く、
「この世にあるものは、動物も、植物も、茶碗も、全部魂があるのです。魂があるのだから生きていられるし、役にも立つのです。人間だけではなく熊、狐、樹木に至るまであの世に行く、そしてまたこの世に生まれかわってくる」という。

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更に、
「人間も、熊も、普段使っていた食器も、みんな幣場で送るのがアイヌ古来のしきたりだ」という。

つまりアイヌは’存在論’という大きな命題に魂を宿らせて考えるが、アイヌのエガシ/古老はまるで哲学者のようであり、同時にアイヌは輪廻、再生の思想を説くが、これは仏教の基本思想のひとつになっていると述べている。
さらにアイヌは、「あの世には天国も地獄もない、したがって亡くなった方をあの世に行けるように残された人たちがしなければならないのです。ですからこの世で泥棒しても、人殺しをしても死んだ時には、皆がお悔やみに来た時には、悪事をすべて晒して悪い奴だけれども、神様に受け取ってください、もしも神様が受け取らないと何をしでかすか分からないので、どうかお願いします、と言って引導を渡します」ともいう。

これらより梅原猛は、アイヌの世界観の天国、地獄の区別はなく皆、同じところに行けるという思想をして、親鸞の’悪人正機’に似るとしているが、これは逆で、アイヌに敬意を払う意味でも本来、親鸞の’悪人正機’がアイヌの世界観に似ると書かなければならないだろう。

親鸞の思考の根っ子にある、仏教渡来のはるか前より続くとする、エカシのような生死観は、今よりもはるかに深山幽谷といわれた、比叡山の二十数余年にわたる修行期に体得したのだろうか。
短絡に過ぎるかもしれないが、法然に限らず、親鸞も、もしかしてこんな日本人的こころの原風景から、’無分別智’に繋がったのか。

梅原猛はまた、若冲の絵に天台本覚思想の「草木国土悉皆成仏」の思想を認め、世に問うその眼光は老境において、さらに鋭さを増し、21世紀に警笛を鳴らしていたが、この点について加藤周一は、古代仏教から四分五裂した仏教のすべてを理解したわけではないので、仏教VSキリスト教の問いには答えられないと、やんわりという。

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確かに加藤周一も道元禅師を研究されており、天台の本覚門、始覚門に否定的な禅と、それぞれの立ち位置の相違に気が付いていたのだろう。

ここにも自然科学出身者らしく、あくまでも実証主義を第一とする加藤周一に対して、梅原猛の立ち位置は時に、歴史、哲学から飛び出すことを厭わない。
例えば梅原猛の、法隆寺の聖徳太子怨念論などは、fiction or nonfic,の垣根さえも飛び越え、その深い洞察、それを仮説といってもよいが、世に賛否の渦を巻き起こすという狙いは見事に的中する。
もしや梅原猛は御自身の信奉したある哲学者の宣う、logos & pathos/passion間の行き来を、さらには主客という大きな壁さえも超え、ご自身で楽しんでいたのかもしれない。

さらに円空論では、「円空をして、空海に匹敵する名僧」と書き残し、親鸞論では、聖人の最重要な教えの一つである、回向の重要性をなんとなんと、浄土真宗の坊さんにも説き、「坊さんたちは、目を丸くして聞いていた」等と、ユーモアを交えて語っているが、仏教界でも梅原猛の存在は、大なるものがあったに違いない。

愚生の如きが、ご両人を喩えるのは非礼に過ぎるのは承知の上で、加藤周一は切れ味の鋭い百戦錬磨の光輝く名刀に、一方の梅原猛は敵にあえて刀疵を残さず、皮下より骨膜に至る挫傷を負わす、木刀のようなものか。

従来の「序説」を名乗る本は、いわゆる音楽でいうところのintro,建築物でいうなら、さしずめentrance程度のものが多いが、両書は日本人の行動様式の根源にある思考を晒し、さらにその奥には、それが人間存在そのものや、世界の成り立ちの根源から、’智’のあり方、’智’の手法そのものまでも、反芻している。
もしもそれらの営みが哲学であり、仏教だとするなら、見えないものを見る、これら両書の行間には数々の深い問いが隠されているようだ。

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今日的なたたき台として、例えばAIを考えてみたい。
モノ作り日本は今、AI、5Gの研究、開発でも相当な遅れをとっているが、いずれAIの進化により2045年頃には現職業の約50%近くが不必要となることは自明、否応なしに人類が今まで経験したことのないステージ、つまり大変革期に突入するらしい。

ならば、或いはヒトの思考は退行、劣化するとしても、もし加藤周一、並びに梅原猛が存命だったならば、必ずや’AIの哲学’に挑んだと思われるが、その問いは而今、「自分とは何者か」、「ヒトとは何者か」に収斂することなく、動物と植物、或いはヒトと機械の壁をとっぱらった、新しい概念と格闘するに違いあるまい。言い換えれば生物学、自然科学共々、根底からひっくり返る時代がもう目前に迫っている。

このままでは、日本人は他力でただ大海をdriftingするしかない、それこそprinciplesを欠いたまま、従属性のみで、安っぽく落ちぶれてしまうのか、そんなことをたしか三島由紀夫も別の切り口で案じていた。

もしヒトが生き残るとして、新しい哲学は不要なのか。

或いはAIの’知’に、ヒトの’智’はあがなえるのか。

人間力がいよいよ試される、無限に続く、おもしろい戦い。

play ball  ♪♪

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2018年9月 2日 (日)

ホタル

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8月中旬、ここ北海道はある日の深夜、書斎から外を見ると、一匹のホタルが窓ガラスに止まり、なんと蛍光を点滅させているではないか。
裏の雑木林の下を流れる小川からでも飛んで来たのだろう。
加えてホタルのすぐ横には、遊び心いっぱいの小生意気な顔をしたカエルが一匹、涼夜の風情に一興を添えている。

たかだか十秒たらずの邂逅にして、まるで若冲の一幅の屏風画を思わせるような、凛とした風景に、日本人ならではの、ある種の贅沢感がわく。

想い起せば鼻ったれの悪ガキの頃、近くの川辺で初めて見たホタルの美しさに我を忘れ、捕ったホタルを虫かごに入れて、まるで宝物のようにして持ち帰り、部屋の電気を消し、さらに何枚もの布団を重ねた中にホタルの入った虫かごを置き、そこに数個の頭だけをつっこんで、ホタルの乱舞する空間をしばし見合った記憶がよみがえる。
以来、数十年ぶりの再会にて、今の地では初めて見るホタルである。

’美’といえば、前ブログで引用したブルーノ・タウト、および加藤周一著の同二書より再度、引用する。
『私達はこの廣縁に張出して設けられた竹縁に出てみた。
これは月見臺と呼ばれ、ひとはここから池水に映る満月の影を楽しむのである。向ひのやや小高い茂みのなかに一基の石燈籠がある。
このやうな月夜に燈籠の燈火は螢を誘ひ寄せ、螢の光はまた水の面に映じるのだといふ。
靜寂である。
魚は幾たびとなく鱗を水の上に躍らしては、またぱしりやりと音をたてて池中に沈んでいく・・・』。
<桂離宮/ブルーノ・タウト著/篠田英雄譯/育成社版/1946年出版p84-85よりママ引用>
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次に、
『花伝書の、「ふうてい形木は面面各各なれども、おもしろきところはいずれにもわたるべし」と、この面白しとみるは、世阿弥の「花」であり、ヘーゲルの美学が、芸術的表現を「普遍的なものの個別化」として規定するときの、普遍的なものであった。
そして、おそらく、相阿弥が、砂と石とを用いて、方寸の地に捉えた自然そのものだったのである。

たとえば修学院離宮の山の風景はan sich(即自)の自然であり、他方における(竜安寺)の海の風景は、für sich(対自)であり、an und für sichの自然は、桂離宮をあげねばなるまい』。
<加藤周一著、/昭和42年出版/日本の庭、亀井勝一郎&臼井吉見(編)『人生の本9-日本の美』文芸春秋社発行、p331-332より引用>

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以上、優れた著述家らの感性を愚生如きが引用することに躊躇いはあるが、それやこれや芸術家を名乗る輩らの感性は、an sichからan und für sichへと向かい、遂には昇華への道をたどるらしい。

たしかに桂離宮の住人らの、ホタルに月、さらに石灯籠などを用いてan und für sichの世界を遊泳する御作法一つをみても、今に忘れられた昔の趣味人の豊かな感性、そして時に見せるであろう、深淵に沈吟する心模様を想像せずにはいられない。

だが、まったく違った感性もいい。
悪ガキらにとって、互いの鼻面の間に展開される、視覚以外の五感を取っ払った世界、せまい世界にある刹那、そして鼻先の主客未分の光源の乱舞等々、いうなれば直観の宇宙こそは、いつまで経ってもan sich、である。

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2018年8月11日 (土)

人格という単語

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ブルーノ・タウトは書いている。
「一方には政治と権力があり、他方には芸術と文化がある。小堀遠州はこの相反を―――これは単なる不和以上のものであった、―――自己の一身に於いて超克せねばならなかった。彼は芸術家として徳川のために作事しながら、同時にまた彼の最善をつくして文化の標準を維持するためにつとめなければならなかつた。桂離宮の造営と時を同じくして、徳川氏は日光にあの野蛮なまでに浮艶な社廟を建築した。かくのごとき時世にあって、小堀遠州には、時の権力者の要求する豪奢の趣味を醇雅の途に導き、いっさいの反対的傾向に抗して文化を高く保持するに努めるより他に途が無かったのである。確かに彼はこの悲痛な妥協を自覚してゐた。また多くの同時代者がかかる妥協を非難したことの正しさも、彼のよく識るところであった。桂離宮がきわめて現代的な原理を示してゐるとすれば、それはここに顕われている小堀遠州の人格が、殆んど三世紀の長年月を経ながら今なほ現代的であるからだ。かかる人格は、今日われわれの住むいづこにあつても苦しい闘争を堪へてゆかねばならないであらう―――小堀遠州についてはいま一つの謎が解けぬまま殘されている・・・」<ブルーノ・タウト著/篠田英雄譯/1946年出版/『桂離宮』/育成社版:84-85よりママ引用>。
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本書は変色し、読み返したページはすり減り、往時の経済状況を知らしめるように粗雑な紙質ながらも、趣のある装丁と、なによりもゲルマン的視線から醸し出される深い味わいは桂離宮を題材とした他書をはるかに凌駕するように思える。
また篠田英雄の洗練された邦訳も、本書を名著たらしめる要因のひとつでもあろう。
ここでは桂離宮は小堀遠州作として論をすすめる。

この庭園評に、二度も用いられている’現代的’とは、ブルーノ・タウト自身、及び小堀遠州にかかる形容詞であろうが、一方には’現代的、すなわちモダン’とは、作庭家の云う’永遠のモダン’という、あるいは多くの芸術家の目指すであろう美意識でもあり、ブルーノ・タウトは当時の無自覚と言うよりは、当たり前に有していたほとんどの日本人の美意識を’永遠のモダン’という極地へと否応なしに誘引し、昇華したかったのだろう。
いつの時代であろうとも、過去、未来を含む’今’を、ショートカットすれば道元禅師の而今/NICONにして、日本庭園を代表する桂離宮が世界的にもすぐれた庭園美を兼ね備え、どの時代でもいかに美しいか、そこに通底する、’永遠のモダニズム’を説く。

加藤周一は、上記のブルーノ・タウトの著書、「桂離宮」をもとに論を進め、さらに作庭家らの人格を炙り出しているが、その論法にはすごみすら感じる。
たとえば岡倉天心を引き合いにして、
「暴君の友情は常に危険な光栄である」と、秀吉の庇護を受け、秀吉のために殺された利休を引用し、みずからが権力の被害者ではなかった岡倉天心の利休論と、ヒットラーに追われたブルーノ・タウトの小堀遠州論を比較してみるがよいと、書中でするどく指摘する。

批評家みずからの体験、みずからの人生、みずからの時代が、二つの文章をいかにあざやかに区別しているであろう。殺された利休よりも、殺されなかった遠州が、いかに深く悲劇的にみえることであろう。
さらに迫害され、ついには異郷で放浪を重ねてみずからの精神の自由を護り、孤独な生涯を辺境での客死に終わった建築家タウトにとって、小堀遠州の桂離宮は人格の問題であり、もしそれがわれわれの人格の問題でなければ、われわれには何も付け加えることがないはずであると <加藤周一著、/昭和42年出版/日本の庭、亀井勝一郎&臼井吉見(編)『人生の本9-日本の美』文芸春秋社発行、p334-336より引用>、いうなれば美をもって人格という単語に集約させる眼識には正直、驚かされるが、逆に見れば政治、権力の側にある人物に、おおよそ人格と言う単語はふさわしくないのか。

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ここに、それぞれの芸術家が持つであろう理念が否定されたとき、それをたとえば人格という単語に集約するには、つまり文学者を含む芸術家とは、ここでは著述家であり、著者であった加藤周一自身の人格も含めて、論じられるものだということを行間に残しておられる。

これを自分流儀でおもいっきり砕けば、診ることは是即、診られることであり、教えるとは是即、教えられることに通じ、加藤周一が発した自他に対する無言の問いは、凡な愚生如きですらも、即自/an sichの人格を発見する。

さて追い込まれた者達、それがドイツのヒットラーに追われたブルーノ・タウトにして、そして徳川に仕えた小堀遠州にして、彼らは憂苦をもって確かに権力者に対峙する人格をさらした。

それを人生の美学として、まさしく現代的/モダンに、もっと言えばかっこよく。

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2018年3月 2日 (金)

石牟礼道子の哲学

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石牟礼道子女史の思考は、徹底して人間存在の低みに立っているようだ。
数ある著書の中から、一部的外れなところも含めて以下に引用してみる。

「自分を無にして、・・・この世で一番低いところに自分を置いて、目線を低くして山川を見直してみる。健やかだった私たちの山や川や海。私たちには想像力というのがあるんですから、生存の環境みたいのはたくさん失いましたけれども…もう一度健やかな山川をよみがえらせられないことはないだろう・・・」(環境と人間)-水俣からの発信『石牟礼道子全集7巻p341より引用』。

あのメチル水銀によって発症した水俣病、加えてむごいことに妊婦のplacental barrierもアミノ蛋白と結合して通過してしまう胎児毒性によって、この世の地獄に追いやられた水銀中毒患者らは、さらに風評による迫害、差別まで加わる。
日本的な村社会の排除の論理で、無垢で生きるに必死な水銀中毒患者は一層痛めつけられたが、石牟礼道子はなんと加害者であるチッソ水俣工場、さらには薄情な世間すらも’許す、恨まない’、と言い放つ胆力を持ち合わせていた。
書くまでもないことだが、国家が支払う多額の補償金目当てだの、税金の持ち出しだのと言い表す所作をみても分かるように、’許す、恨まない’を単なる美談と聞き流して逃げ切ろうとする国、チッソ水俣工場らは裏で赤い舌をだし、にやけていることを熟知しつつも、である。
石牟礼道子の長年にわたる思考の格闘から、ついにたどり着いた哲学には、正直驚かされた記憶がある。
果たして人はそこまで言えるのだろうか、愚生にはおおきな疑問が残った。

さらに読みくだくうちに、石牟礼道子の哲学の根っこには、宗教性も潜むことがわかる。
石牟礼道子の宗教性を勝手に想像すると、胡散臭くなく、線香の香りもなく、さらには押し付けがましい小理屈もなく、宗教の始祖を権威あるものとしている物語を疑い、その真の姿は違うのではないかと問う。
また以下に引用してみる。

「キリストが物語に組み込まれたとき、馬小屋で生まれてもその誕生を予言する東方の聖者たちが現れて、なぜ最初から権威を付与されるのかと問う。キリストは、本当は無名の人だったろう。権威づけられない聖者はどうしてあり得ないか。無名の聖者は無数にいたし、今もいると思う。それは最下層の、汚濁にまみれて、一切の受難を背負った人間であったろう。権威づけられず、なんの恩恵にも浴さない、いつも無名で生き続けてきた最下層の人間たちが人類を生き変わらせてきた力なのではないか。慈愛とか愛とかは、仏や神が衆生に垂れるものではなくて、逆である。救われぬ人が充ち満ちているからこそ、宗教が救われ、かろうじて命脈を保っているのである。救われざる民の魂によって、宗教が逆に救われているのである。人間の心をほんとうに揺り動かすことは権威の力ではできない」『石牟礼道子全集』三巻、p501~502より引用。
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まさに逆説とはこういうことを指すのだろう。
世に多々ある、なんたらと名のる神だの、ほとけの教えをうやうやしく説く教祖様を最高権威とし、精緻な教義と、集金組織も併せ持つ既存の宗教教団は石牟礼道子の弁になにを思うか。

石牟礼道子の核心と度胸はここに見てとれる。
男でもなかなか言えないことを言い切り、その圧倒する筆力でもって読者の頬をおもいっきり打っ叩く。

さらには、
「最下層の人間の生き様はそれを神だのとのたまう以前の心情であり、『何様かは分からないでも』ふうっと呼び寄せられて拝むところに人間にそなわった敬虔さ、はるかな知性があって・・・、また神は人類が文明を築き始めたときに、人間によって創造されたもので、神は本来無名である」『石牟礼道子全集11巻p523より引用』。

愚生にとって、石牟礼道子による創造論/intelligent designの否定はまさに目から鱗、ある意味で日本人への覚醒をうながす。そして日本人の根っこには無名性と普遍性があるという。

あるいは無知蒙昧と卑しめながら、生きとし生きるものすべてに霊性を認め、与えられるものすべて、たとえそれが良かれ悪しかれすべてを受け入れてきた、一昔前まではごく当たり前の、そんな日本人を代弁しているのだろう。

ほんらい愚生如きの、生き様のよろしくないやからの書くことではないが、もし思考の営み、歴史、社会、超越を包むすべてを考察するのが哲学だとするなら、石牟礼道子の哲学は、西洋思想の根本思想のひとつであろう、自然は支配できるとする誤った立ち位置を今一度、本来の日本の立ち位置に帰れという提言でもあるのか、大事な宿題を残して逝った。

この石牟礼道子女史は只者じゃない。

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2017年8月20日 (日)

下手のソイ釣り

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その昔と言っても明治の初めに、イギリスは田舎のヨークシャー出のおばちゃん、この旅好きの通称バード/イザベラ・バード/isabella birdが函館到着後、森町から25mileをフェリーで室蘭に入り、ドサンコの背にまたがり、時に渡渉と難儀しながら平取のアイヌ部落を目指した珍道中記は今でも面白い。
この名著の誉れ高い、『日本奥地紀行,unbeaten tracks in j,』の中に記載されているように、バードおばちゃんは白老から眺めた樽前山がいたく気に入ったようで、旅好きの自らが過去に見た海外の山々と比べて、その絶景を美文で称えている。
そんな樽前山を、太平洋上より眺めながら釣り糸を垂れ、至福の一時を過ごす。

時にうとうとしながら、小さなカレイ釣りを楽しんでいたところ、やけに重量感のある手ごたえが釣り竿に伝わり、瞬時にして睡魔は吹っ飛ぶ。
釣り師の最高の瞬間を楽しみつつゆっくりと巻き上げると、立派な魚体で初見の、薄黄色いお魚さんがタモ網に入った。

釣り師と目を合わせたこのお魚さんは、さぞかしトンマな奴に釣られたと後悔したに違いないが、悲壮感など更になく、野武士を思わせる面構えは、威風堂々として怒気鋭く、鋭い歯に加えて、体表に数条の黒い縞模様を入れたファッションセンスを見ても、こやつの美学はなかなかのものである。
お名前は、漁師用語で’キゾイ’と教わる。

だが不思議なことがひとつ。
タモ網の中で暴れるキゾイには釣り針が口の中どころか、他のどこにも引っ掛っておらず、しかもオモリが見当たらない。よくよく見るに、なんとナス型で80号の赤いオモリを咽頭部奥までしっかりと飲み込んでおり、引き抜こうにも簡単ではなかった。

なんと、400円のオモリでソイが釣れちゃった。

帰宅後にキゾイの胃内を見ると、小さなカニだの、貝殻、ヒトデだけで満たされており、小魚などは見当たらない。他にもっとマシな餌はあるだろうに、釣り針の餌の美味しそうなイソメすら無視して、オモリに喰いつくキゾイの捕食行動は、はたして偶然なのか、必然なのか。
余談だが生物界に「偶然」など、あるわけがないと考えてはいけない。
あるいは人たる生物は、これからも生き残るのは必然と考えてはいけない。
生物は、乱暴な言い方をするならdnaのコピペのミスから始まり、その時と場所で生死を懸けた応用問題が次々と課せられた。知られるように多くの生物は不解答で即絶滅したものと、逆にdnaの変異を武器として正解を得、奇跡的に生き残った現在の少数の生物と二つに分けられるが、人をして将来も生存は当たり前、必然だと考えるのはせいぜいアメリカのトランプ大統領くらいのものだろう。
さて未熟な釣り師だが、単に「偶然性」の一文字でかたづけてしまっては、キゾイに申し訳ない。そこにはしたたかな生き残り戦略、つまり習い性という「必然性」もあるに違いない。
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勝手気ままな戯言はここまでだが、人もお魚さんに劣らず妙な生き物で、「偶然」にこだわった哲学者が知る限り、ひとりいる。
九鬼周造がまず「偶然性の問題」と題して、ひとつの答えと言うよりはむしろ、考え方を示し、後の書には思考に経年的な変遷があるのもまた、見逃せない。

九鬼周造によれば、今更、要旨を書くまでもないが、「必然」の本質が同一性に、「偶然」の本質は同一性が破られたあとの二元性にあると考える。あの有名な定言的、仮説的、離接的という三つの視点から「偶然性」、「必然性」を分かりやすく説いている。ところが二元性を生み出すものは「無」であるというから、愚生如きには難解である。
九鬼周造の説く「無」とは、絶えず世界に裂け目をもたらす運動であると単純に、しかも文字通りに解釈しえたとしても、一見さんの愚生は門前払いされ、その深奥に入り込めない。
本書を読み解くには、つまり九鬼周造を知るには、九鬼周造の「無」を理解しなければ、受け入れられない憎さもある。

また盟友であった西田幾多郎の、さらには禅坊主ののたまう「無」とも異なり、また一遍さん、道元禅師然りで、それぞれがそれぞれの「無」を含意している。
例えば三木清の「虚無」にしろ、西田幾多郎の「絶対無」にしろ、「無」なるものをそれぞれが、名刀か、あるいは錆刀か知ったことではないが、ぶった切ったそれぞれの切り口を利けという。

日本人たるもの、せめて「無」なるもの、くらいは理解しなければなるまいが愚生如きには、一生の問いでもある。

九鬼周造は続いて、明治以前の日本人をして「自然」と言う単語は山川草木を表すものではなく、「自然に」などと動詞につながる、副詞的な使い方がされていたと述べる。
つまりは「おのずから」などとする、伝統的な「自然」観を、西洋近代の「自由」と比較する。
ここで自由とは「必然」から解放されるとするのが一般論だが、それは「恣意」であり、結局人間は「因果的必然」に支配されることにあると、論破している。
そして「日本的性格」論に至っては、「偶然性」のままに生きる「自然」と、「目的的必然」に服従するという意味での西洋的「自由」とが、日本では融合しているという。
つまり九鬼周造の「偶然性の問題」、「いきの構造」から「日本的性格」に至って、「偶然性」、「必然性」の融合に至ると言うが、またまた能力の限界を知らされる。
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さて、キゾイとオモリの関係性を、飛躍して九鬼周造と祇園の芸者との関係性になぞらえたところで、核心であろう「無」はもちろん理解しえないが、無知なるが故の、的はずれな問いも生ずる。
例えば21世紀的手法のひとつの、主を排した客観、例えばそこに科学を持ち込み、もし数次の危険率のもとで統計学的有意性の有無を突き付けたなら、さらにはパスカルのパンセの中でも有名な、pari/賭けという概念、確率論を突き付けたなら意地悪が過ぎるにしても、21世紀とはこんな九鬼周造の感性に似合う、うま味、色気を消し去る時代なのかもしれない。

さらに九鬼周造といえば、上記の祇園、芸者のほかに、京都帝大、天心をイメージしてしまう愚生だが、明治に海外に発ち、想定外の出来事、出会い、つまり偶然性にこそ人の世を見た九鬼周造は、例えばsnsなどで同好、同志だけが集まり、同趣味を楽しみ、それを拡散させるのを避けるといった、ある意味で鎖国趣味的で退屈な、ばかばかしいほどに必然性を求める今生に、なにを想うか。

必然は、やはり因果であり、恣意なのか、そこにあるのは自由なのか、あるいはそうでないのか?

そろそろ下手の釣り論にもどろう。
昨今のAIを駆使し、徹底して必然性を求めるご時世をして、それを文明の発展とうそぶく世知辛い娑婆に成り下がったとしても、船の上は別世界だ。

ならば今度は、inductiveにそれを証明してみようではないか。
のほほんと、真っ赤なオモリだけで釣りをしてみるか。

生物が醸し出す愉快な面白さと我を忘れて遊ぶ楽しさにこそ、釣りの本当の面白さが詰まっているのに、また愚問に終始してしまった。

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2017年6月25日 (日)

下手のイカ釣り

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愚生如きの横着な釣り人にとって、イカ釣りはめんどい。
喰いたい一心で釣行するも、墨はかけられるわ、逆に喰い付かれるわと、いつも散々なめにあわされる。イカ様はお利口さんで、愚生を小馬鹿にする術をきちんとわきまえている。
要するにイカ様の有意識の証明であろう。

下手の釣り談義はさておき、科学者と哲学者それぞれのイカに関する比喩的な奇譚とでも読める書を2冊、書棚から引っ張り出す。

まず養老孟司
現在の科学は、専門の科学者によって運営されています。じつはこれが大きな問題なのです。専門の科学者というのは、論文を書く人であって、生物学者であれば生物を題材にして論文を書く。
生物を題材にして論文を書くことが必要なのです。論文を書かなければ学者として認められず、評価されない、研究費がこない、仕事にならない、だから論文を書くのです。ところがその作業をよく考えてみると、論文を書くということは、生きたシステムとしての生き物を止めてしまうこということです。
論文に書いてあることを言葉の羅列を生き物だと思う人はいません。すでに生き物が情報となって止まっているのですから。これは生物学が一つ誤解している点です。誤解しているというか考えていません。生き物というのは動いている。しかしその動いているものを止めないと論文にならない。ここがポイントです。非常にやさしくいうと、イカをスルメにするのが生物学です。スルメとは止まっている対象物で、イカというのは生きている対象物です。著者の専門分野である解剖学をやっているあいだ中、「人間加工して、人間のことを研究しているっていっているけど、それはスルメからイカを考えてんじゃないの」といわれ続けました。もっとはっきりいう人は「スルメを見てイカがわかるか」と表現します。私が大学に入るまでぐらいは、「大学に行くとバカになる」というのは世間の常識にあったのですが、このことが今になってよく分かりました。イカをスルメにすること、つまり生きて動いているものを止めることはうまくなる。そして止まったものを、情報処理することは非常に上手になる。しかし生きているものそのものに直面するというか、そういうものをほんとうに相手にして扱うということは下手になるような気がします。<養老孟司&茂木健一郎共著/スルメを見てイカがわかるか!/角川書店/2003年出版、p14~16より引用>

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引用が長くなったが、文意は既に分かりきった2次元の限界、動態の静止による生物学の研究手法批判にして、ならば新たな研究手法でもあるのかと期待しつつ読んだが、しょせん自省を含んだスルメの目線、つまり養老孟司は今風の西洋的な目線の物足りなさと限界と、それ以上に日本人が忘れかけている東洋的目線の重要性を忘れていないのがいい。

ならば生物学などと、こむずかしいことはさておき、能天気に切り口を変えてみよう。
イカは獲りたてを船の上で干し、炭火で炙って喰うのがいい。
「そったらことも分かんねぇで、偉そうな口をたたくな」、
と赤黒いお顔の、見るからに焼酎焼けしたイカ漁師の舌鋒は鋭い。
愚生もご馳走にあやかったことがあるが、実に旨い。

真っ暗な海の上で、度胸と五感だけを頼りに稼きまくった昔のイカ漁師は、生物学から航海術、気象学まで習得していた。
漁師は学会、ペーパーとは無縁な職種だが、その特異な経験、実績は、たとえそれが失敗であれ、しかと口伝として船頭から乗り子へ、親から子へと残すのが日本古来の流儀と聞く。
最近よく耳にする、天気予報が当たらないだの、しばしば外れるなどといった泣き言は、昔の漁師は口が裂けても言わなかった。
それは漁師の宿命であろう、板子一枚で天と地が隣り合う職業ゆえ、自らが命を懸けて判断するものであり、それをのたまうことは即ち、未熟さの露呈にほかならない。

この口伝こそが今で云う所の論文であり、本邦に西洋式の気象学なる手法が導入されるまで、再現性、客観性を有する本来の学問だったのだろうと勝手に想像する。

余談が過ぎたが、養老孟司があえて書いた「大学に行くとバカになる」という世間の常識とは、西洋科学的手法、例えばそれが、nanoからdnaに至る縦断面的な情報処理に頼らざるを得ない現実を前にして真逆の、東洋の統合された立体的思考、つまりイカ様の目線の重要性を説き、叡智の覚醒を促していると読めなくもない。
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次に中沢新一の書評
波多野一郎はモントレー漁港で大量に水揚げされたイカに’死’を見いだして、自らのすざまじい体験とシンクロして、イカの実存から、『イカの哲学』という小冊誌を著した。
いっけん軽そうな運筆の中には、筆者の重い体験から派生する、洞察力には唸らされる。波多野一郎には、深奥をまだまだ説いて欲しかったが残念である。

ここでは引用はしないが中沢新一はその解説の中で、
「人が他の生物と共有する生命現象の原理と、私たちホモサピエンスの知性活動を動かしている原理を一つにつなぐ、真のミッシングリンク/missing linkを見つけ出さなければならない。それは人の心の秘密に触れているから、思考におそろしく深いダイビングを要求することになるだろう」と、難問を残している。<中沢新一・波多野一郎共著/イカの哲学/集英社新書2008年出版/p163より引用>

さて、地球上に一個の生命体が出現したその時まで、時間軸をさかのぼることが可能となった今、発生学者らを筆頭に、我々人間は、はるか祖先の原初生命体をある程度は想像でき、また将来における、例えばそれが未来学者らを筆頭に、地球物理学者を含むその先頭はAIかもしれないが、高度に発達し過ぎた生命体を含んだ全消滅時期を、例えそれが主因でなかろうとも、おおよそ予測できる時代となった。
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ならば当然、形而上学的creationismの基本論理は瓦解しなければおかしい。本邦においても例えば円空、弥勒菩薩にしても、生命体の全消滅を必然として思考したなら、そもそも救済の論理は成り立たないが、釈尊は人の生に対する死を直観として思考したみたいだが、それは個人の死に関してであり、全ての人類の死、滅亡まではお見通し出来なかったようだ。

不遜なことを申すつもりはないが、弥勒菩薩は釈尊より数十億年後に再登場して、救済にあたるお役目を仰せつかっているが、もし地球が枯渇した球体としてでも物理的に存続していたならその時、地上に現れた両菩薩は惨憺たるchaos、無生物の廃墟を前にして、何を問うか。

日本の21世紀の今に残る、自然に神を棲ませてまで守り、循環させるという優れた思考とは真逆の、西洋的思考のひとつの核心でもあろう、’自然は操れる’とする愚思考が氾濫する時間軸の中で波多野一郎は、イカ様の有意識に対するヒト様の無意識、人品を重く問う智力を残してくれた。

さてさて、魚ならぬイカの釜中に遊ぶ姿は、実は人の釜中に遊ぶ姿なのか。
とここまで脈絡に欠ける駄文を連ねてただ今、丑三つ時、窓明かりにでも誘われたのか、部屋の前の楡の木にカッコウが一羽、狂い啼きしている。

郭公 然誰見ず 誰聞かず 恰愚ブログ如

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2017年4月16日 (日)

フェイク&ポストトゥル-4

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まえからの続き
今更ながら、ウソの’強制連行された朝鮮人慰安婦’報道を流し続けた朝日新聞はいまだ反省なく、さらには韓国にプラスになる記事は大きく取り上げ、逆にマイナスになるような記事は小さく隅っこに少ない字数で書き連ねるか、他紙とは真逆にあえて無掲載にするといった、なんとも如何わしい紙面作りは韓国第一主義の表れと映る。
朝日新聞はなぜ、日本に赤っ恥をかかせ、韓国内の反日運動を露骨に応援してまで、韓国に助け舟を出すのか、なぜ異様なほど韓国に想いをはせるのか。

あの時、つまり慰安婦報道のウソをやっと認めて木村伊量が引責した時に、朝日新聞社は自らがreset出来ていたなら、などと考えるのは所詮は野暮だが、元朝日新聞社の尾崎秀実の行動は、あるいは今に何かを示唆しているかもしれない。

尾崎秀実は日本で共産主義革命を目論んだ。
そのやり方はミンスクの松林における大虐殺と同じく、日本と支那を徹底的に戦わせて疲弊させ、マルクス・レーニン主義を芽生えさせるという、そこに共通してある人命の犠牲、不幸、悲惨は感傷心に過ぎず、プロレタリア独裁の共産主義世界を実現する必要経費と見下す<前記の崩壊、朝日新聞/長谷川熙より引用>、凄まじい考えも見え隠れしている。
そしてその残虐性は1972年、共産主義国家の樹立を目指した赤軍派にみられ、さらにポルポト、そして毛沢東にもみられ、それぞれ数百万の屍を残した史実に朝日新聞は時に肯定的な見解を書き残している。
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それらideologue者らは、言葉を変えると世界の共産主義革命こそが理想社会をつくると目論み、ideologyの変換を謀ったのと同じく、今の朝日新聞社も同様にideologue者と勝手に自惚れ、安っぽい自己保身術も併せ持ち、詭弁を弄し、同時にフェイクを立派な武器としているようだ。

余談だが、上田閑照は自著、「私とは何か」の中でも問いているように、例えばidentityという単語の根っこにも、私とは、そして我々とは何者だ、の問いかけがある。
愚生は集団的identityを鼓舞する気はないが、identityがもしも他者との関係から発した単語だとするなら、この朝日新聞においては、まず日本に対するidentityの否定が深層に潜むように思えてならない。
もちろんそれをして単純な善悪論でかたずけてはいけないが、かつて愚生がそうであったように、朝日新聞の読者はあらかじめ朝日新聞がのたまうideologyという強毒性の抗原に対する抗体を有して読まなければ、簡単に感染させられてしまう危険性大であろう。
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また朝日新聞は他紙よりも暗にintelligenceの高さを標榜するも、ただ単に日韓にchaosを演出し続け、前記の先見性,深慮に決定的に欠け、まるで憂さ晴らしの低俗な週刊誌の如き、韓国の中央日報、朝鮮日報の2紙同様に、読むに値しないどころか、害悪ですらある。

メディアには保守、革新等々いろいろあってこそ健全だろうが、朝日新聞のように露骨に自国、日本を批判し、さげすむ論調と、韓国の悪を無視してまで擁護するスタンスは如何なものか。
今更ながら、朝日新聞は読んではいけない。
もしも日本が朝日新聞の思惑通りの国家になったなら、愚生は日本から飛び出すであろう。

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2017年3月 6日 (月)

フェイク&ポストトゥル-3

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まえのブログの続き
挙句に韓国では日本の首相を呼び捨てにするのは当たり前で、日本に対しては何を言っても、やっても構わないとする朝鮮人のむきだしの思考方式は、更に嘘で塗り固められた’強制された慰安婦’をして、毒気をはらむ’性の奴隷/sex slave’と変換し、世界中にばらまいた。
それで韓国人は自尊の念を抱き、何故か狂喜するといった、不可思議なリワード・デリュジョン/妄想的報酬によるところの稚拙な集団行動は、ポストトゥルの典型的な例にほかならない。
これでは日本の国粋主義者らの血が騒ぐのもうなずけるし、冷静な自制心をもつ日本人もすでに我慢の閾値を超えているのではないか。

また中央日報、朝鮮日報web日本語版の2紙ともに自国を一等国、先進国と自賛しているようだが、政治、経済、科学分野の記事には日本に対して恨み、やっかみが滲み出ているのは、隣人としても忍びない。
それは単に自国民へのストレス負荷に過ぎないのではないのか。

今、日本では国と国、民族と民族は平等と教わるが、韓国では反日を声高に叫ばないと国会議員になれないお国柄、同じく過激な反日記事を書き連ねないと売れない新聞等々、まるで時計を止めてしまうが如き、韓国のみっともない国体は目に余る。
逆にTHAAD/ミサイル防衛システム配置による、中国から受ける数々の屈辱、露骨な嫌がらせには、卑屈なまでにだんまりを決め込むという、なんとも正反対の国体も内在するといった、整合性を欠いた民族性をいったい、どのように理解すればよいのだろうか。
或いは諭吉が心を痛めたのも韓国人のこんな民族性にあったのでは、等と勘繰りたくもなる。

今頃になって韓国内では、慰安婦報道は’嘘だった’の認識も一部のまっとうな韓国人の間には芽生えつつあるようだが、もう片方には’国民情緒法’なる、法律もあるから、さらにこじれる。
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これもまた、実にたちが悪い。
信じられないことに韓国では、法律の決め事よりも、自国民の感情が優先されるという、自らの社会の根幹となる決定事項すらも、感情によっては否定しても構わないことを意味する。

ならば当然、問いが生ずる。
ある集団の中で意見が二分した時、声のデカイ奴か、態度の横柄な奴つが勝つに決まっていることは小学生にも分かることだが、いったい誰の感情をもって、誰が感情的に裁くというのか。

さらに韓国人の民族性として、時には理性の否定も平然とやってのけ、自民族意識にそぐわなければ、平気でウソをつく習い性も兼ね備えていることは、日本に指摘されるまえに、何より上記2紙の認めるところでもある。
韓国ではもしや、ウソも日常的感覚の中に組み込まれているのだろうか、いやはや中世より進化をお忘れのような、何ともおぞましい生態を晒している。

韓国人が自らに突き付けてしまった、理性と感情の問いでもあろうが、これから国家として存続しえるだけの智慧、冷静さはあるのか、加えて今後の軍部の動きは?

朝鮮人を揶揄する気は更にないが、南北朝鮮の更なる経済、政情不安による、もしや朝鮮人難民、密入国者らがまた、他人の国へ土足で上がり込んだり、無分別に大挙して押し寄せて、例えば東海大学の金慶珠とやらの如く、傲慢に何らはばかることなく、ケンカ腰で、朝鮮人にも参政権をよこせだの、税の免除だの、噴飯ものの利己主張をなされたなら、などとは考えたくもないことである。

ほどほど懲りてしまった日本人は今、失笑と諦め顔で傍観するが、病み、混乱する韓国は果たしてここから何が生まれ、何を失うのか。

続く

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