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2007年2月22日 (木)

加藤周一の生の条件

Imgp4878

2007年2月21日、朝日新聞、加藤周一記、

夕陽妄語より、以下に抜粋、要約。

「生」の条件は差異である。

二人の間で差異があれば競争が起こり、勝敗がある。

競争は個人または集団の自由の表現で、無制限な自由は殺人にまで至る事がある。

政府の自由の行使が殺人にまで及んで制度化された例は、主として二つある。

死刑および戦争。

続いて、「不条理の平等」の説明として’いろいろな死’を例に挙げ、

旧約聖書の「伝道之書」は、人間の所業を総て

「空の空なる哉」とした上で

「神を畏れそのいましめをまもれ」と結論した。

Imgp4831

愚生、キリスト教的論理の一つである徹底的に神を意識し、信心の心を有した姿勢に空疎な、異質で、波長の異なる違和感を禁じえない。

それとも愚生も加えた大方の日本人がそうである様に、神仏にある一定の距離を保ちつつ、神カマウナ、仏ホットケという、とても大事な思想も対側ある。

仏様に怒られるかな、それとも寛大なお心で・・・???

そう云えば、イスラム原理主義、キリスト原理主義はよく聞かされるキーの一つだが、仏教原理主義って聞いた事無いが民族性だけの違いだけではないのだろう。

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コメント

はじめまして。はじめてコメント残します。

日本人は一体いつの時代から神仏に一定の距離を保つようになったんでしょうね。
日本人のほとんどは「キリスト」にも「アラー」にも「お釈迦様」にも特に関心がなさそうですが全世界的に見て他にそのような思考の柔軟な民族はいるのでしょうか??

投稿: トヨハタ | 2007年5月31日 (木) 17時08分

例えば、極端な例を一つ。

イスラムのコーランは必読とも言われ日常総ての所要にイスラム教が入り込み、生活と教義が一体化されているのに対し、日本ではごく一部の宗教関係者以外は無意識に生活している。

又、明治の廃仏棄却の際、京都のお坊さんは長年祭ってきた仏像を従来の密教の儀式で除魂?した後、何の躊躇いも無く焼却したお寺もあるらしいです。
これらは極端な例ですが、この事を思考の柔軟性とは必ずしも言えないのではないでしょうか?

トヨハタさん、

投稿: 与作 | 2007年6月 1日 (金) 15時26分

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