今一度、開高 健論
愚生の釣り人生を開眼させ、そしてワイルドに未知の世界を案内してくれた男である。
この男、ヴェトナム戦争の最前線にも行き、頭上を銃弾が飛び交い、御小水をちびる様な恐怖の極限とも云える所にまであえて行ったのは、この世に理想的共産主義革命なるものをおのれの眼で見たくて、と言ってはいたが。
そんなこと、ありっこないと思いつつも、愚生も開高 健の肯定的な報告に期待もしたし、そうあってほしいと思っていたが実は違う所に力点があったという事がこの年になって薄っら判った様な気がする。
文豪は命がけで見るべき、リアリティに富んだ凄まじい現実と、創作された架空の世界を用意した。
戦場では死体が転がっており、或る所では知的で強烈な自己主張する絶世の美女を登場させたり、妖艶なワインとグルメから、中南米の巨大なミミズ、そして北米のサーモン、オヒョウ釣りがあり、それに何処か薄汚い売春婦の徘徊する退廃的な酒場があったり等々。
non fictionと対するfiction、これを日本的な相対と考えるならば
文豪は勝手にこれでもかと云う位、自由に言葉を操り、今でも読者を酔わせ、惑わせ続けている。
東洋的ゼロとイチを問いかけた文豪の心を捉えきれず、若かりし愚生、見事に氏の引っ掛け用の釣り針に喰い付き、ぬか喜びする事しばし。
そして、「夏の闇」では’絶対’から日本的な’空’へ視線が変わり最後に全てぶっ壊してさようなら。
司馬遼太郎は開高 健が決して用いなかった’空’なる単語の対側にあえて’絶対という大うそ’という美しくもあり、明快なフレーズで印象的な弔辞を述べている。
伝道の書-コヘレトの言葉、ソロモン王が書いた?とされる
この伝道の書の’空’ともまったく全く違う。
どこか気分の良い空でもある。
文豪は好奇な、いたずらぽっい眼差しで、
「空は喰うじゃよ、君」、
「俺の心をどの位理解した積もりでいるのかね、ワッハッハッハー」と、のたまっているかも。
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