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2008年3月28日 (金)

慎太郎銀行と止め時

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人生、色んな局面で悩むものの一つに’止め時’がある。

第二次世界大戦時、日本軍参謀本部はサイパン、グアムの惨敗で殆んど勝つ見込みのなくなった事を明らかに悟ったがその時、何故潔く、戦争を止めなかったのだろうか。
その一点に大きな疑問、そして最大の戦争責任が集約されている様にも思える。

あの悲惨なカミカゼ特攻、原爆投下、沖縄戦、東京大空襲等から思い起される事だ。

そして後の軍参謀の代表的存在であり、ある種の化け物の様な東条英機が唱えた戦陣訓、所謂、’生きて捕虜の辱めを受けるな’等と云う、世界戦史上でもあり得ない馬鹿げたフレーズで無意味に沢山の命を失う事もなかっただろう。

何より歴史は大きく変わっていただろう。

昨今の「慎太郎銀行」とも揶揄される新銀行東京、400億円の追加融資も殆んど成功しない事は自明の理であるにも拘らず、賛成票を投じた東京都の自民、公明議員の思考回路は戦前の軍の暴走を止められなかった国会議員とあまりにもよく似ている。

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その戦陣訓に似た石原慎太郎の強がり節、自爆覚悟の強硬姿勢に多くの日本人はうんざり感を抱いているし、何より盲目的に戦争に突っ走り、70年近く経過しても政治スタイルは全く進化していない。
これでは石原慎太郎が常日ごろお得意とする、中国、韓国の政治、国民性をとても笑えまい。

両者とも、止め時を完全に失してしまいその結果、東条英機は刑に服したが、一方の安っぽい憂国の士を演ずる石原慎太郎は予想されるであろう銀行経営が行き詰ったとき、果たして如何な屁理屈を並べる事であろうか。

その時こそ、逃げ徳は絶対に許されない。

昨年の安倍晋三辞任劇は考察にも値しないが
そもそも、人として又、政治家としてもあまりにも資質の欠如した未熟な二世議員の典型と云われる虚弱な輩が首相に選出された事に大きな誤りがあったが、それにしても突然に、しかも素早く首相の座を辞した事は異論もあろうがあれでも遅すぎた。

その後、止せば良いのに誌上等で女々しく読むに値しない空疎な理屈、言い訳がましい御託を並べているが政治家である前に人間性を問われるべきだろう。

三者に共通している、責任逃避行動の深層には風を読みきれない、自信過剰のnarcissistに往々にして宿っている、精神病理的な愚かな自惚れ、自己愛的な自尊心が影響を与えているのかもしれない。

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2008年3月26日 (水)

さゆり

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華やかな世界の裏側には生臭い人間臭を帯びた欲、徳が混在するが祇園のプロの芸姑の一人称で語られたさりげない回顧録に味わい深い人間味を感じさせる良本だった。。

全米で200万部以上売れ、ヨーロッパでも反響を呼んだ世界的ベストセラー「さゆり」日本語版を再度読み終えるがよくもここまで祇園花柳界をアメリカ人が描いたものだと感心させられるしその努力には敬服する。

1997年、出版後たちまち日本ブームとなりマドンナが衣装を着物風に変えたり、時のヒラリー大統領夫人にも影響を与えたとされる。

NYタイムズ紙のオーナーであるザルツバッカー家の息子であり、日本通でもある著者のアーサーゴールデンの設定は、9歳の少女で芸者置屋に売り飛ばされた貧しい漁村出身の姉妹の青い目をした幼子がさゆりという芸姑になり、絶望の淵から這い上がるある種の戦いを挑み、挑まれつつその世界で次第に名をなしてゆきやがて大成し、ハッピーエンドというストーリーで映画化もされ主役は中国人であった。

その映画は書籍よりも内容が狭く戯曲化されすぎていたが総指揮がスティルバーク、ハリウッド製だけあって日本人の目からすると若干の違和感も、しかしそこが又、面白いのかもしれない。

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尚、この映画は中国で上映禁止となったらしい、理由は主役の中国人が演ずる日本の芸姑は中国人にとっては高級娼婦なのだろう、その配役を中国人の俳優が演じた事に対する自尊心の問題だという訳だ。

主役を演じた中国人女優のチャン・ツッイはアメリカと異なり中国では恥ずべき裏切り者との評価をされたらしい。

話題性に富んだ映画だが、中国ではいまだに芸術がイデオロギーを超えられないとは国家自体の根っこに存在するであろうトラウマと云うよりは、何かの目的を持ってそのトラウマもどきを当局は勝手にプロパガンダのマテリアルとして利用しているだけの事だろうが疑問の残る反文化的な愚行でしかない。

文体が聞き取り調のラフカディア・ハーンの小説にも通ずる所があり確か、ハーンも芸姑に付いて書いていたのを読んだ事がある。

それにしても、なかにし 礼著、「長崎ぶらぶら節」の芸姑、「愛八」と本書の「さゆり」はよく似かよっておりその他の設定、内容等々にも類似点らしき箇所が随所にみられるが気のせいかな。

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2008年3月19日 (水)

博士号謝礼事件と御祝儀

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人それぞれ多くを語らない陰の所に’付け届け’という因習がある。
人間関係の上下だとか、権威だとか、階級だとかによって分けられた者が下から上へ所属する組織内、或いは組織間で盆暮れの付け届け、謝礼、接待、冠婚葬祭等々に至る、色んな名目で何某かの意味、期待を込めお金、或いは相当する贈答品で’気持ち’を表す行為がある。

例えば忠臣蔵の原因は諸説あろうが
その要因の一つに指南料、いわゆる’袖の下’が小額だったのではないかとする意見がある。

切られた吉良上野介は浅野内匠頭から受け取った指南料が小額過ぎた故にきちんと作法を伝授せずに恥をかかせ、殿中に至ったとする説である。

仮に吉良が希望通リの指南料を受け取っていたなら刃傷沙汰は起こらず、浅野は儀礼を忠実に実行したであろうし世間の風を読む優れた大名と評価され、又、姑息的な人物像としての吉良は存在しなくなり、そもそもストーリー自体が成立しない。

是非はどうあれ、浅野及び吉良の心情を察する日本人は贈る側と貰う側の絶妙でもあり、微妙な駆け引き、そしてある種の日本的なバランス感覚を肌で感じ取っている。

誤解を畏れずに書くと高額なお金が動いた横浜市大の博士号謝礼事件などは日本の伝統的な慣例であり、問題のない現金授受と何某医学部長は判断されたのではなかろうか又、ハッとされた諸兄も沢山いただろう。

しかし、21世紀になってもこの時代錯誤も甚だしい因習にけじめを付けなかった公務員でもある教授らは、権力者の当然得られるべき対価だと勘違いしていたのだろう。

社会常識とは無縁な内向きの思考回路しか機能しない学内の権力者にとって、権威とはこんなものでしかないのだろうか。

無言の強制とも云われるこの悪しき日本的非常識に逆らって謝礼を支払わなかった優れた博士号取得者もいただろうがきっと学内には残れなかっただろうと推測される。

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倫理観の欠如した教授らが集って学内の倫理委員会でこの問題を検討するらしいが横浜市大はここにも大きな間違いを犯してる。

これは倫理等という高尚な問題ではなく、中学生にもわかる人間性の問題である事すら理解できない学部教授陣の様である。

但し、受け取りを拒否した副査でもある准教授がおられた事がせめてもの慰めではあろうと単純に考えがちだが、この種の事件が露見した根っこには往々にしてお金、人事等の絡んだ、きな臭い問題が内在している事が多い。

人間性に問題がある教授が生命の尊厳を説いている学問なんて、

城山三郎氏が聞いたならなんとコメントされたであろうか。

社会倫理の欠如した教授が生命倫理を説く愚かさを敏感に感づいていた学生こそ被害者だろし本来のアカデミアの全否定であろう。

数年前、こんな事があった。
外国から帰化して10年以上経つ知人のアングロサクソン系の好青年が、日本を含む世界に通じる高難度のライセンス取得に挑戦、愚生もお手伝いさせて頂いたが見事に合格、その御祝いに日本文化を理解させる意味も込めて、御祝儀を渡したがその意味を理解させるのに大変苦労した事がある。

「東洋の不思議な国の習慣はシンジラレナイ」と、

ごもっともです!!

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2008年3月13日 (木)

石原慎太郎にとっての天皇

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石原慎太郎という男、平時と有事、攻撃と防御ではこうも変わるものなのか。
計算され尽した意図的な差別発言、そして軽さの中にも一見勇ましい言動に、映画の中でヒーローが何某かの正義の味方を演ずる骨っぽい男臭さに似た感じを懐いていた人も沢山いただろう。

昨今の軟弱、世間知らずの政治家もどきが闊歩する中で、明治以降の右翼が持ち合わせていたであろう極端な思想、偏向、短絡的な信条にはあえて目をつぶってもそれ以上に肝のすわり、筋の通った立派な人物像を期待していたのも事実であろう。

政治家に先見性、勇気、仁慈、高潔などを期待する事自体、大きな誤りとは知りつつも一連の石原慎太郎都知事の発言、姿勢から察するとやはり理想像にはほど遠い、晩節を汚した頑固一徹な独断的で無能な輩という事が再認識される。

昨今の新銀行東京再建策の議論に至ってはその政治手腕は三流であり、まして人間性たるや、姑息的手段でなんとか逃げを狙う評価にすら値しない負け犬以外の何者でもない。

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責任論ではトップに君臨したる者、組織或いは部下のなした結果責任は総てトップに帰するのが最低限の定めにも拘らず、所在不明詰まり、石原慎太郎知事自身に責任はないとする、なんら恥らいもない強弁、詭弁の数々を吐く。

あげくに彼の最も得意とする所の、天皇と称される人物を頂上に崇めた強固な国粋的イデオロギーの中に潜んでいる、
「誰も責任を取らない隠れ蓑としての茫漠とした天皇制」の中に尻尾を巻いて逃げ込む後姿があまりにも情けない。

あえて右派風に表現するなら、
天皇から国体の一部を任されている知事職に奉職する者の決してあってはならない、軽々しい責任転嫁ともとれる女々しき発言の数々に大きな疑問を懐くのは愚生だけではあるまい。

石原慎太郎の国家観、民族観の根幹にあるであろう天皇とは敬い、畏れ多い存在の筈でなければならないが実はまるっきり逆だったという事がすけて見える。

かつて戦争犯罪を問われた軍参謀らが戦後GHQの追求から逃げ惑った心情同様に、ただ単に自己保身の為にのみ存在する天皇なのであろう。

言い換えるなら、石原慎太郎にとって天皇とは
「天皇と称される無機質なマスコットを神様もどきに装飾させたもの」でしかないのか。
潔さの欠如、民族派の右翼が聞いて呆れる体たらく、この様な輩に天下国家を論じてほしくないし、政治の場から去ることを進言したい。

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2008年3月 9日 (日)

土井隆雄氏の夢

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団塊の世代にとっても「自分の存在、認識」という大命題からのがれる事ができない人もいるだろう。

スペースシャトル、エンデバー号に乗り込む予定の53歳になった土井隆雄氏は会見の中で、地球という存在を自分の目で宇宙から眺められる嬉さを述べられていた。

きっと、自分という存在、そして宇宙という存在をある種の哲学的大命題として心に抱きつつ科学者の視点で、分刻みの作業をこなしながらも一体何を思うことやら、想像しただけでも面白い。

「むかし、をとこありけり」で有名な伊勢物語のくだりで、
世間知らずのお姫様が月夜の晩に誘拐され、攝津の芥川まで来た所、浅芽ヶ原の草原に夜露が無数に光り輝いているのに驚いたのと同様に、漆黒の闇の中で次第に小さくなってゆく地球を見ながら、ある宇宙飛行士は宇宙ホタルを見たと言っていた。

はじめて見る、広い原っぱに無数に光輝く夜露と、カプセル外に放出された宇宙飛行士のオシッコをきらきら輝く何千の宇宙ホタルと表現した様にここに共通した原初的体験がある。

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あえて言うなら、この夜露をはじめて見た高貴な平安時代のお姫様にとってはカミ、ホトケのなせる事ではないか、と考えたのだろうか。
それが同時期、日本に伝来したであろう大日如来か、或いは既に存在していた阿弥陀如来だったのかもしれない。
それやこれやで日本には沢山の神様がおられる。

アングロサクソンも宇宙ホタルにカミを感じたのだろう。
それが人格神なのか、哲学的な物的神なのか知る由もないが一人だけもしくは一個だけなのだろう。

日本人の初宇宙飛行士の秋山豊寛氏は多くを語らず、福島の山奥でPC、携帯電話を排除し、花鳥風月を楽しみつつお百姓さんの如き生活に変わってしまった。

過去の宇宙飛行士の中には宇宙で体験した感動を伝えているが、中にはトーマス・アクィナスに喩えつつカミの存在を説いておられる方もいる。

宇宙から地球を見ても日本人にとってはきっと綺麗、美しいと芸術的表現はしてもアングロサクソンが云う、

「神様にしか創れるはずがない」などとは決っして考えないだろう。

さて、土井隆雄氏は無事帰還後になんとコメントされるのか。

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2008年3月 2日 (日)

思考の退行

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日本の仏教が古来、動物を喰らう事を禁止していた一番の理由はその殺し方にあったのかもしれない。

狩猟民族は伝統的な方法、生業として、捕えた動物は頭部を叩いて脳幹部、延髄部まで破壊して倒し、危険がなくなると左胸部より長い刀、槍でまだ動いている心臓、大動脈を切り、血をぬく。
続いて頭をはずし脚、尾を切り取り皮を剥がす、そして後肢より吊り上げ内臓器を肛門、会陰部より食道、気管支まで一塊で取り出し、最後に背中から二つに分けられた状態が’お肉’なのである。

これら一連の方法に誰も感情を持ち込まないが、あえて残酷と表現するなら、地球上でこれほど残酷なものはないだろう。

無意思を装い一連の作業をこなす人は
「搬入された動物たちは血の臭いで自らの運命を察する」
事を経験的に知っている。

肉を喰らうという事はこういう事であろう。

又、一方で現在の生命科学が教えるている事は、一言で表すと動植物はすべて平等なdnaを所有しているという簡単な真理であろうか。

生命活動様式、方法は違っていても生物学の前では平等なdnaの恵みを色々な種、例えば牛から、豚から、そしてクジラからいただいてきた歴史がある。

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既に言い尽くされている事だが、日本人はクジラを崇高に敬い、命がけで捕えた鯨体は無駄なく、感謝の念を持ってすべて利用し尽くす。
アメリカの様に鯨油のみ利用し残りを廃棄していた民族とは比較にもならない、古くから伝わる世界に誇れる素晴らしいクジラ文化がある。

バッファローをスポーツハンティングの対象として激減させ、或いは場所によっては絶滅させた愚かなアングロサクソンと異なり、日本人は他の生物の命を感謝の念を有せずに必要以上に奪ったり、再生産を無視した狩猟は決っして行わなかった日本人の英知がみてとれる。

C・W・ニコルは著書、「勇魚」の中で日本人は敬いつつクジラを食べ、日本のクジラ獲りにはクジラへの尊敬の念があった、そうした日本人の心を、歴史的背景とともに世界に知らしめたいと記している。

それがいつの間にかベトナム戦争で枯葉剤を使用した事を国際世論から非難される事を恐れた当時のアメリカ大統領ニクソンが、論点の移行を計るために意図的に創出された愚かな感情論、それが何の脈絡もなく突然出てきた’クジラを殺さないで’というアメリカ発のスローガンだろう。

大きな意図を持ち、上手に情報操作された反捕鯨運動がそこからはじまり、ニクソンは自らの悪行の一時的なカモフラージュをはかったとされる。

’お利口なクジラを殺さないで’などとまるで子供が自ら抱えている人形に感情移入した如く、未熟で全く意味を持たない感情論に加え、哺乳類の中で何故かクジラという生命体のみを捕食する事を暴挙ととらえる軽薄、空疎な論理がまかり通っている。

思考の退行である。

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