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2008年6月28日 (土)

虚空と西洋の虚無

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学生時代に読んだ、川端康成の「美しい日本の私」の最初に出てくる、

   春は花 夏ほととぎす 秋は月
   冬雪さえて 冷しかりけり

"In the spring, cherry blossoms,
in the summer the cuckoo.
In autumn the moon, and in winter the snow,clear,cold." 
                   Seidensticker訳 
道元禅師の「本来ノ面目」を引用してはじまる小文を改めて読み直す。
氏は禅に関し、文中で瞑目して無念無想の境に入り、「我」をなくして「無」になる。
この「無」は西洋の「虚無」ではなく逆で万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです、と1968年のノーベル賞授賞式で述べている。

Presently he enters a state of impassivity, free from all ideas and all thoughts.
He departs from the self and enters the realm of nothingness.
This is not the nothingness or the emptiness of the West. 
It is rather the reverse, a universe of the spirit in which everything communicates freely with everything, transcending bounds, limitless.
                         Seidensticker訳

同氏は又、「美しい日本の私」の対極に大きく存在する西洋のnihilismという単語を用いて東洋の虚空との違いを述べている。

Here we have the emptiness, the nothingness, of the Orient.
My own works have been described as works of emptiness, but it is not to be taken for the nihilism of the West.  
                         Seidensticker訳                                                            

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愚生なりに262文字に例えると次の様に解釈できるかも知れない。
日本人は昨今の秋葉原で起きたnihilisticな行動を経験しているが
色即是空、つまり『目の前にあるもの一切はこれと云う実体が無い』と解釈されるならこれはひょっとして日本のニヒリズムなのかと思いきや、続いて出てくる『空即是色』、つまり『全ては元々実体はないが、その存在には大きな意味がある』と帰する所に仏の智慧が集約されているのだろう。

横道にそれるが、その後26年経過した1994年、大江健三郎氏のノーベル賞受賞式講演のタイトルは川端康成氏の「美しい日本の私」を意識した、「あいまいな日本の私」 -the ambiguous and myself であった。

川端康成の「美しい日本の私」に続く大江健三郎の「あいまいな日本の私」、そしてなぜか、何の脈絡もない安倍晋三は愚かな事に大江健三郎のアンチテーゼとでも安易に考えたのか、「美しい日本」と川端康成にあやかる下心でもあったのか、訳のわからない、空疎な政治スローガンを立ち上げた。

この安倍晋三著の「美しい日本」と一見マイルドな表現ながら強烈な国粋思想を包含した本を出版するが、こちらは日本人のバランス感覚の前に外道あつかいされ、見向きもされていない。

当然であろう。

「良書を読むための条件は悪書を読まない事」と
ショウペン.ハウエルさん?は言っていた。

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2008年6月22日 (日)

感謝の念

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愚生が子供の頃、ご近所で開業されておられた内科医は威厳があり、周囲から尊敬の念で眺められていた。
何より、医院の門をくぐっただけで治った様な気がするくらい存在感のある先生であり、今でも、にがい薬と温厚で包容力のある表情を思い出す。

昨今、アメリカ在住の友人らは異口同音にアメリカ型の様な医療後進国にしてしまったなら大変だよと。

例えば、虫歯の抜歯だけに6-10万円、盲腸の手術に100万円以上の請求がなされ不法移民、低所得者らは病院に行けないでいる。

日本には素晴らしい医療技術そして国民皆保険という世界に誇れる制度があり、結果として日本の平均寿命は世界一とよく云われる。

しかし医療システムが狂いだしてきており、その最たる例が日本を支えてきたお年寄に負担を強要させるといった行政の浅知恵、欺瞞。
又、それを厚生省の誤った行政とする見方に集約される不可思議な現象。

医師の過重業務を理解しようとしない患者、治って当たり前とする患者からすると結局、医師対患者の心の乖離に拍車をかけるだけだろう。

日本人の根っ子に長年、先生と称され、尊敬されてきたお医者様に対する’感謝の気持ち’が薄らいできている事と関係はないのだろうか。

何故なのだろうか。

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愚生の記憶ではその当時、政治力のあった土建屋団体と並び称され、自民党に対する強力な圧力団体の日本医師会々長であった
故武見太郎、別名ケンカ太郎とも揶揄された氏が豊富な資金源をバックに無茶苦茶な医師優遇税制なるものを立ち上げ、国会でゴリ押した頃からマスコミの過剰とも、ヒステリックとも思えるバッシングに晒され続けている。

故武見太郎氏の一概に軽率とは言えないまでも医師会の権益拡大を狙った方針が氏の没後リバウンドしてしまい、医療費切り下げからやがて医療システムの危機へと繋がったと言えなくもない。

当時の武見太郎氏の驕り昂ぶった言動はバブル最盛期の箱物行政に徹し、あげくに財政を破綻させてしまった当時の夕張市長の威勢のよかった短絡的発言と二重写しに愚生には聞こえる。

故人に鞭打つ気などさらさらないがトップに立つ者の先見性の欠如の見本の様にも思える。

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2008年6月12日 (木)

自己との乖離

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世の中、色々な人間がいる事を痛感させられる。

母親の子宮から逃げ出したままの人間、

向上心を持っている人間、

選択の自由、自己責任と云う便利な言葉を隠れ蓑にして、怠惰に暮らし、高カロリー、高脂肪の代表のようなジャンクフードを貪り喰らい、酒を浴びるように飲み、皮膚にタトゥーを刻み、ピアスの穴を体中に開けるような人間もいる。

人生の選択肢を徹底して狭めるているがそこで充実感、達成感が得られるかは解らない。

「こんなところにいるはずの人間じゃないんだ」
とイラついている人間。
場合によっては憎んでさえいる様だが誰をどの様に。
そして究極の形として秋葉原通り魔事件へと結びつくのだろうか。

理想的自己と現実化した自己との乖離とするなら、少し前まではまだ社会そのものにも包容力があった。

困難な時代に突入してしまったと云う事なのか。
もし日本仏教の思想家らに問いかけたなら果たして何と答えるのであろう。

オリジナルな仏教本来の、自分から一切の誘惑、邪念を取り払った環境下に身を置き、遂には自分そのものの枠組みを取り払うradicalな側面を有する思想体系、詰まり自分周囲の共同体、所有物を否定する思考方法ならば、とてもじゃないが今の社会問題には積極的にアプローチ出来ないばかりかanarchyな側面を有する思想ゆえに解決出来ないのであろうか。

しかしそれでは駄目だ、

日本仏教の退行でしかない。

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社会学者の宮台真司氏も、
「宗教は社会で救われない人が最終的に救われる場所」
と言っているが、こういう時ほど慈悲を蓄えた釈迦の教えを持って大いに発言すべきだろうがセクト化された仏教各宗派より愚生の知る限り聞こえてこないのは何故か。

キリストの牧師さんなら、先ず「彼はでは自分を愛しているのか」と問い、直ぐに行動を、そして発言するだろう。

ひろさちや氏は
「人と動物の違いは宗教の有無であり無いのが動物」
と言っている。

だが、眼を凝らしてよく見ると、日本では既に宗教は無くなっているのだろうか。

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