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2008年8月29日 (金)

三島と開高 健のコラボ

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開高 健の22歳はどん底だった。

著書、「一言半句の戦場」のなかで、以下のように書いている。
食い物がないってことはつらかった。
所詮大学とはラテン語で’暇つぶし’と言う意味でせいぜい顔をだしたのは試験の時くらい。とにかく食うのだ大変な時代だった。

おちこぼれ青春無頼派は就職難、おまけに子供ができて、結婚して・・・・先が全く見えなくなった。

とにかく食っていかなくてはならない、アルバイトに精を出す、育英資金はドライミルクに化けた。やがて大学を終え、寿屋(今のサントリー)に就職する。

やり出したら止まらない、トコトンまでやっちまいたい、盃のフチをなめたら底まで飲みほしたい,その代わりみかん箱を机代わりに使うような家に親子3人、一本5円の豚のシッポばかり食っていた。これをぶつ切りにしてごぼうや生姜と一緒に煮込む、なかなか美味しい。

ある意味、面白い時代であった。
同じ感性でもう一度やれというなら逃げるけど、別の感受性を与えてくれるなら、もういっぺんあの時代をくぐってもいい。

愚考の連鎖つまり、時には自分に追いついたり、追い越したり・・・途端にどっかに消えたり、だから今だって矛盾だらけ。

以上、文豪はあえて、修行の足りない、できそこない坊主の説教を
よそおった小文も書いている。

だが、
「父を疑え、母を疑え、師を疑え、人を疑え、しかし、疑う己を疑うな」と青年時代の未熟さを真摯に受け入れつつも、怖ろしいほどの感性を含んだ眼光で人のエコロジーを洞察していた。

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三島由紀夫が市谷駐屯地に、安ホテルの門番に無理やり白鉢巻きなのか、手拭いもどきを巻きつけた様ないでたちで討ち入ったのは愚生が学生時代の昭和45年11月25日であった。

バルコニーに立ち、読み取れない檄文を垂れ下げ、実戦とは縁のない留守部隊を相手に演説を開始する。

ところが三島由紀夫の演説はマイクを持たなかったので良く聞き取れない、対する自衛官らは私語を始め、演説に耳を傾けるものはなかった。

苛立った三島由紀夫は「静聴しろ、静かにしろ!」と叫ぶ、

しかし聴衆からは「聞こえねえぞ、馬鹿やろう!」と罵声が、

三島由紀夫は蒼白となり
「諸君の中に俺と一緒に起つ奴はいないか?」と、やがて、

「俺は死ぬんだ、憲法改正の為に起ち上がらないという見極めがついた」と、

最後に皇居に向かい正座して、
「天皇陛下万歳」と(猪瀬直樹著、ペルソナ三島由紀夫伝)。

寂。

当時、NY-Times東京支局長であったH Scott-Stokes著、「三島由紀夫 死と真実」には盾の会の隊員が分列行進する様は、まるで’一団のデクの坊’と書かれてあり、

司馬遼太郎は自衛官の発したヤジの中にこそ正論ありとしている。

三島由紀夫のみこころは精神病理的に、「自己愛性人格障害」と診断されるらしい。

なにより万歳されてしまった天皇にとっても迷惑千万であったろう。

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この二人が彼岸ではなしに此岸にいたらなんて考えるのは止す。

同時期、脈絡もないこの二人の天才の時間はあまりにも短かった。

1970年代の擦れたウッドベースとギター、ラッパのコラボジャズを聞き、安酒を少し口にすると何故か、残渣としてのみこの二人は現れる。

もしもが許されるなら、
三島由紀夫から’あまり身に馴染んでいない借り物のイデオロギー’を、開高 健から’絶対という大嘘’の為でもあった’ワインと美女’を取っ払ってみたくもなる。

真夜中にブルーノート旧盤を聞きながら、つい馬鹿な事が頭をよぎった。

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2008年8月26日 (火)

中華思想、この奇異なるもの

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矢張りと言ったら言い過ぎか、
北京オリンピックで日本選手に対する露骨なまでのブーイングもどきはまだ我慢しても、又、マナーの欠如は仕方ないにしても、中華思想を絡めた、恥も外聞もない行動に呆れる事しばし。

中華思想の’中’とは世界の中心、’華’とは支那つまり中国、その意味する所は’世界の中心の中国’という意味、そして彼らからすると、日本は東に位置する野蛮な国(東夷)と言い表されるらしい。

大迷惑で、馬鹿げた独善的思想であるが、漢民族の思考、行動の基本となっているとするなら、そこに問題の根っこがあるのか。。
ベルリンオリンピックでナチズムに於けるゲルマンの優秀性を説いた民族概念を彷彿とさせる。

愚生、もしもこの思想が前面に現れるとしたなら北京オリンピックは汚点を残すだろうと思ってテレビ観戦していた。

案の定、である。

開会式から’やらせ’行為が露見してしまう。
日本のマスコミ各社はなぜか遠慮半分、同情心半分で

’おかしい’程度の表現、しかし、欧米各社は至極当然に

’嘘つき、だまし’ときっぱり報道する。

対する本家の中国は’当然の演出’と大反論していた。

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ここにも、近代化の意味がまだ理解出来ずに、慣れ親しんでいる何でもありの中華思想が顔を出してしまっている。

オリンピックという世界が見ている大舞台で言い逃れし、平気で嘘をつくそのスタンスには、あきらめに近い、ため息しかでない。

誠実性の欠如である。

くさい物には蓋をしたつもりが中国当局が選んだその蓋なるものが少し小さすぎた程度にしか思っていないのだろう。

彼らにとって近代化ってこんなものなの?

世界の先進国と称される国々は近代化と云われる’難産’を経てきている。我が日本は明治以降を近代化とするなら、愚生の知る限りその過程に於いて少なくても’嘘、不誠実、偽、詐’はなかった。

近代化って’国家の成熟’と言い換えるなら、なにか別なものが見えやしないかな。

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2008年8月24日 (日)

北京オリンピックと謝罪

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’謝罪と補償’という、もう聞きたくもない腐敗臭のただようワンフレーズがある。補償はこの際置いておくとして、これは韓民族の特技かと思いきや、日本人にもあてはまるらしい。

昨日の北京オリンピック日本野球チームの負けに対して’敗軍の将’気取りで星野監督はじめコーチらが異口同音に’申し訳ない、済みません’のオンパレードだ。

何故、全力を尽くし、大汗をかいた後に謝らなければならないのだろう?

謝罪って非を認める事であり、相手に許しを請う事であるなら、スポーツの原点であろう正々堂々と戦い終えたアスリートのする事ではないだろう。

そこにあるのは発する側の何某かの大いなる勘違いであり、受け手側にとっても喪失感の中にある、後ろ向きで、ある種の空疎な空腹感を満たすものでもないだろう。

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両者とも閉所に押し込まれた状態で発展性の欠片もない、内向き思考方式であり、東洋的な傷の舐め合いでしかない。

そこから一体何が生まれるというのか。

アスリートとして基本を教えていない体育会組織にも問題はあろうが、結果に優劣はつきもの、勝負後は自分の肉体、精神に自信を持ち威風堂々と振る舞うべきであり、女々しい、陳腐な自己責任論など述べてはあまりにもみっともない。

謝罪行為そのものこそスポーツ選手にとって最も惨めな事すら理解し得ない、この’名将’を冠する星野監督らに多くを期待しても所詮、無理な事だったのだろう。

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2008年8月 4日 (月)

ある戦争裁判と人道

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リチャード・ギアふんするアメリカ映画「ハンティング・パーティ」の中でも、追われる立場であったボスニア・セルビア共和国元大統領カラジッチ氏が遂に捕まる。

日本のメディアは足並みそろえて元大統領カラジッチ氏を何故か悪者扱い、醜悪な民族主義者的扱いだが、それはたかだか一面でしかない。

彼はサラエボ大学医学部卒の精神科医師でもあり、小説家、詩人の顔も持つ。
多民族の集合体であった旧ユーゴスラビアは長年、チトーの卓越した政治手腕&カリスマ性によって統率されていた。
所が、チトーという巨大な一つの重石がはずれた途端に、当然の如く生じた民族自立の機運より、セルビア人、イスラム教徒、クロアチア人の三つどもえの民族紛争が始まる。

いよいよ、クロアチア、イスラム教徒に対し勝つか負けるか、セルビア民族の存亡を掛けた戦いがはじまる。その中でセルビア右派の中枢の一人であったカラジッチ大統領の指示で?圧倒的武器をもちい約8000人のモスレムを虐殺したとされる。

もしもカラジッチ元大統領が紛争の最中、休戦、和平を唱えたなら彼は国内で政治生命どころか自身の命の保証もなかったのだろう。逆に停戦に応じず、彼の夢見たであろうセルビア単独の国家が成立していたなら英雄として君臨したかもしれない。

オリンピックが開催されたサラエボは死の町と化し、競技場は墓場となるほど民族間の憎悪感情は凄まじかったと云われているが民族紛争の究極の姿と言えなくもない。

ここに古くて新しい、根源的テーマがある。
一人の敵を射殺する事に’人道’は問われないが8000人を殺す事が’人道’違反なのか?ならば100万人殺して統一した人間は’人道’違反か、それとも英雄か?

本来、戦争とは人道を否定した上で遂行され結果としての勝者、敗者の各々に表面化する、しないにかかわらず’人道’違反が存在するのは歴史が何よりも証明している。
新しいケースでは、イラクのクエート侵略に対するアメリカ軍のとった’数百名のイラク兵生き埋め殺害’等はその際だった例だろう。
にもかかわらず、あえて’人道’という単語を使用する事にある種の欺瞞、矛盾も含まれている。

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昨日のイギリスbbc、アメリカのcnn等は民族大量虐殺-genocide、民族浄化-ethic cleansingなる単語を多用しているがその陰にはアメリカ、EUの思惑が見え隠れしている事も確かである。

如何程の権威、客観性があるのか分からないがオランダ、ハーグの国際戦犯法廷なるもので裁判が始まろうとしている。

裁判といった形式であるならば公平性は必ず問われなければならないだろうが、’人道に対する犯罪-crime against humanity’という単語の対極にある’民族浄化あるいは民族大量虐殺’なる単語が飛交う法廷に見え透いた答えを求めているとしか思えない。

ならば、試しにその国際戦犯法廷とやらにおいて、広島、長崎の原子爆弾投下の戦争犯罪性、東京大空襲の戦争犯罪性について議論する事を進言したい。

日本人なら誰もが、これぞ正しく’人道’に対する最大にして最悪の戦争犯罪だと言うだろうが、逆に当時のアメリカ大統領トルーマンは、’戦争を早く終結させる事ができた’と前もって用意された言い訳がましくも聞こえる声明を出している。

セルビア、日本とアメリカのケースでは全く逆の方向性を有し、ビスマルクが怖い顔をして行なったプロイセン国境に関する有名な鉄血演説の中にある、
「多数決によらず鉄と血によって決せられる」とした
単純にして明快な屁理屈に類似している。

そこにあるのはどうやら国力の優劣、勝者の論理だけのようだ。

国際秩序の為の国際戦犯法廷とは云っても所詮、勝者が勝手にのたまっているパワーバランスであり、敗者は煮えくり返る感情を抑制しつつ隷属する選択肢しか残されていないのか。

前記のアメリカ映画「ハンティング・パーティ」の中で以下のフレーズが印象的であった。

The most ridiculous parts of this story are true.

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