« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月17日 (土)

魯山人のプリンシプル

Imgp3228

赤貧のなか、かのロックフェラー財団に招かれ、賞賛されたが、後々、大負債の一因になるにも拘らず一切を自前で通し、携行作品のすべてを各国の美術館に寄贈した魯山人の気概には圧倒される。そしてピカソには自作の紅志野の皿を激賞されるがはにかむ心もあったらしい。

所が日本では5回の結婚、5回の離婚、常識の欠如、無知、無教養、尊大、傍若無人等と揶揄され、下世話な話題にも事欠かなかったらしい。
だが大いに結構じゃないか、感性の違いだけである。

師をあえて持たず、自然を師とした魯山人の残した書、美しすぎる陶器の類は世間の騒音を掻き消してしまう何かを持っている。

世間の枠、常識など気にしない、見方によっては古い時代の生き様なのか、それを小児性などと揶揄されたりもするが本質を見抜き、一筆で迫る美しさを追い求めた男だったのだろう。

芸術を理解しない役人からの人間国宝推挙を拒否するなど、生きるには決して器用ではなかった男、偏屈なのか、狂人なのかは井戸の蛙にお任せするがプリンシプルが見え隠れしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月16日 (金)

魯山人と井戸の蛙と

Imgp3235

名工自らが焼きを入れて作られた玉鋼の包丁で、釣りたての秋のカレイをさばくと、切り口は美しく、淡く鮮やかなスペクトラムを放つ。
それを『魯山人作、紅志野の皿』に盛る。

できれば山葵は登別の本わさびといきたい、酒はバーボンか、ピュアモルトでもいい。

実に良くあう。

真冬にはサクラマスがいい、灘の名酒の熱燗と、『魯山人作、備前のぐい飲み』もあう。

二口目にはサクラマスの味が飛ぶが、なんとも贅を尽くした、みやびな世界が演出される。
ミシュランガイドの星数を気にする様な輩には決して分かるまい。

ふと思う、
結局、三島も、そして魯山人にしても、後世の凡人らが無手勝流に名刀なのか、さび刀なのか分からないが振りまわし、その矮小化された切り口の違いに目がゆくらしい。

あたかも、円だの、四角だのと、空うち眺めた井戸の蛙さんらの如く、ケロケロと楽しく、やかましく。

それでいい、日本人だもの!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月15日 (木)

魯山人にかぎらずとも

2imgp3220

好奇心からなのだろう、知的刺激を受け続け、自らの感性を磨き続ける魯山人の生涯がいろんな作家によって書かれている。

白崎秀雄著、『北大路魯山人』、その一節に
「おい、技巧は芸術やないで、技巧のない芸術はないけどな」とさりげない内貴の一言は矢のやうに大観の心の深みを射た」と福田大観、もしくは房次郎、後の魯山人を表している。

また、著者の父が魯山人と親交のあった山田 和著『知られざる魯山人』文芸春秋社出版の一節に「美は人から生まれる」として両作家の相反する人物評もおもしろい。

一般社会ではなかなか受け容れられない個性と一筆で自然を凝縮させてしまう技、それも芸術と言うなら魯山人の脳の中には両者を共存、燃焼させ、エネルギーに変える強靭なパワーと集中力があったのだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月13日 (火)

白洲正子の見た魯山人

1imgp3217

白洲正子は自著、『名人は危うきに遊ぶ』のなかで、
青山二郎には魯山人を「あんなもんは電車の車掌と思っていればいいんだ」と云わしめ、白洲正子自身も、魯山人を「芸術家だと思うから癪にさわる、無知、無教養なくせに抜群に趣味がよく、胸のすくような作品を残したにもかかわらず自分の作品から何一つ得ることのなかった犠牲者でもある」。

また、中島里壽編、『昭和・物故の美術家たち』のなかでも同様に白洲正子は魯山人を「世間でははったり屋、欲ばりの風評が絶えず黙って物を作っていればどんなにか立派だったのに」と何度か言いもしたが、どうにもならなかった。
しまいには友達ばかりでなく肉親、弟子にもそむかれ、俗物としか呼べないタダモノにあのような美しい作品が造れたこの矛盾は生涯彼を苦しめたに違いない。そこに魯山人の人間としての哀れさがある。
思い出されるのは肩をいからしているくせに、いつも寂しそうに見えた後ろ姿であると、出席者の少ない寒々とした故魯山人の葬式から帰ってきてこれを書いている。

                       ---以上、引用

等々、散々であり周囲に毒気を撒き散らし、困惑させた魯山人に対する白洲正子の気持ちが正直に表れている。世に人物評も色々あれど、なかなかの酷評だが愚生は何故か笑いながら読んでしまった。

滅多切りされる程、輝きの増す魯山人作の陶器、何時ぞや見た「黒織部のグイノミ」などは飄々として、凛としており垂涎ものだった。

芸術とやらの乖離は縮まりそうもない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 2日 (金)

深夜のフクロウの合唱

1imgp2952

深夜、露天風呂気分で窓を開け湯ぶねに浸かり静かな中で本を読んでいると近くでフクロウが2羽お互い数百メートル位の距離を保って交互に鳴き合っている声が聞こえる。

どうやら一定の決まりがある様である。
まず最初に饗音装置は太く大きいのか、貫禄のあるお声のフクロウがホォーッ、ホッホッと野太く重たい低音を発すると、続いて必ず数十秒後に片方のフクロウが真似て鳴く。
後者のフクロウは発音があまり上手とは云えず、音量に欠け、語尾の発音も不明瞭でまだ一軍登録はむりか。

主導する貫禄のあるフクロウの声は周囲を威圧する様でもあり、その昔、茅葺の家に住んでいたアイヌの人達がカミの鳥と言い表した事も十分うなずける。
又、アイヌの古老はフクロウの近くにクマがいる事もあるよとおっしゃていたが、確かに今、近くの畑にクマが出没しているそうだ。

1imgp2857

愚生が水音を立てると鳴き止め、静かにして暫くすると再び野太いお声のフクロウが先ずはじめに鳴き、続いて若輩者のフクロウがその後に習い、それが延々と等間隔で繰り返され闇夜に響きわたる。
両者とも変化のない一定のリズム、音量、音の高低から察するにその位置どころか、顔の向きすらも変えていないのだろう。
あえて理由付けするなら、お互いの集音装置の微調整なのか、あるいは発音の授業中なのか分からないが太古から繰り返されている儀式なのかもしれない。

読みかけの本は山田 和著、「知られざる魯山人」。
魯山人のヨーロッパの芸術家をもうならせた作風と、白洲正子をもってして傍若無人、無知、無教養といわしめ、挙句には周囲に嫌悪感さえ抱かせた強烈な個性との乖離に疑問がわく。
芸術はその人間性に嘘はつけない筈だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »