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2009年12月19日 (土)

臨床

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動的に物事を考え、与えられた現象を的確に、ある時は命をかけて処することを赤瀬川原平著「千利休 無言の前衛」の中で’臨床’と表現されている。

平鉢と梅の小枝を差出され、生けてみよと秀吉はいう。

出来っこないだろう、

所が利休はなんなく、しかも見事に生けた。

平鉢と梅の小枝が利休の体を通りすぎ自然にできた、赤瀬川原平はこれを他力の思想と言い表している。

もし、この時できなかったなら臨床家の利休は即刻、切腹、凄まじい一場面である。

ところ変わって今、二酸化炭素削減cop15会議が騒がしい。
根底にあるのは他力本願といっているマスコミもあるが意味するところがまったく違う、そこに哲学、叡智、宗教的寛容性など微塵もない、単にエゴイスティックな無銭飲食者の調子ぱっずれな屁理屈程度のものだろう。

いずれの日にか、海水面が生存限界の閾値を越え、外気は耐え難き灼熱地獄、狭い富士山などの高い山々に人々は集中、そこには共産主義、キリスト教的博愛もなく、我々の子孫は弱者、貧乏人の順番で消えさると推測する。
地球上は無生物どころか、生物の痕跡すら消滅する日をどのようにむかえ様としているのか、各々cop15出席者の論旨を伺いたいものである。

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その後、利休は切腹を命じられる。

秀吉は晩年、利休がいたなら・・・と呟く。

さしだされた梅の枝をしごき、水面に梅の花を散らした利休の並々ならぬ意思、他力思想とは自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら、人間を超えようとする事ではないかと結んでいる。

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2009年12月 4日 (金)

ル・クレジオの言う宗教性

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ル・クレジオの講演で疑問が一つあった。
会場からq&aで、僧職についておられる方から、「一神教とアニミズムの関係」に関連した質問が出た。
その意図する所は原始仏教に限らずとも草木一本に至るまでカミを意識させる考え方とアイヌの宇宙観はアニミズムという一言で同一化され、その対極にある一神教なるカミが征服者と供に侵入したとき、内部でいかほどの宗教的変化が起こったのかと、おおよその趣旨はこんな所だったろうか。

その質問に対する、返答が理解できず、フランス語通訳を務められた北大、文学研究科の佐藤淳二教授に後日、問い合わせた所、以下のご丁寧な返答を頂いた。

★原稿があるわけではないのですが、ご指摘の質問へのル・クレジオ氏の回答はアニミスムと一神教との区別はあまり重要ではなく、宗教性というものこそが重要である。
宗教性は、宇宙創造のイメージを与える何ものかであり、調和と平和のイメージを各個人に与えてくれるものである。
この意味で、一神教であれ、多神教ないしアニミスムであれ同じで、自然の岩、川、森などなども魂を持つものとして、私たち一人一人を保護してくれ安心感と調和を各人に与えてくれる。それはちょうど父母が与えてくれるような安心感と平和のイメージである。
カナダの先住民族も、資源開発に反対するときには、父である川を守りたいという主張をする。
これこそ宗教性の本源であり、調和と均衡の宇宙イメージである。これを与える限り、アニミスムも一神教も区別する必要はないであろう。
おおよそこのような趣旨であったと記憶しています。
佐藤★

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以上、q&aに咬み合わない部分が生じるのは仕方ないが、マイノリティの自然観と宗教観をル・クレジオが見事に言い表している。

愚生の知る限り北海道のアイヌの方は今じゃ殆どが仏教みたいだ。
推測に過ぎないが、釈迦の代弁者でもあろうそのお坊さんはアイヌの宗教観、自然観に充分応えられているのかという自問、そしてその成り立ちの原罪を抱えつつ、新たな一神教と従来のアニミズムのカオスの中で、彼の地ではいったい何が消え去り、新たに何が生じたのか訊きたかったのだろう。
よりグローバルで、ハイブリット化したカミは出現しなかったのか。

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2009年12月 3日 (木)

札幌でル・クレジオの講演

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2008年ノーベル文学賞受賞者はル・クレジオであったが村上 春樹も候補者となり一時ゴシップを賑した。12月2日、ル・クレジオが札幌で講演、他に池澤夏樹、そして太宰治を父に持つ津島佑子らも同席、手の届きそうな所に座った超豪華な顔ぶれに愚生も興奮する。

昔読んだ、ル・クレジオ著、集英社出版、「パワナ」が池澤夏樹さんによって取り上げられ、少数民族の悲哀を直視し、その自然観が今こそ必要な事と力説され、また知里幸恵のアイヌ神謡集をフランス語に翻訳出版した作家の津島佑子さんが口承文学、女性文学の視点より、金田一京助の影響を受けた知里幸恵の高い文学性に付いて論じられた。
余談だが写真で知る太宰治と津島佑子の表情が余りにも似ているのには正直、驚いた。

そしてル・クレジオの静かなフランス語の語り口から中南米でスペイン侵略によるインディオ社会崩壊の事がインディオの視点で語られ、アイヌとの共通点を説いていた。また、ル・クレジオも知里幸恵の文学を高く評価し、登別に行ってお墓に参いり、「銀のしずく」知里幸恵記念館設立へ向け尽力しているらしく、その賛同、応援者の中にはオノ・ヨーコも名を連ねる国際的な顔ぶれらしい。

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ただ、問題提起としてのこの種の文学は今更ながら新鮮味に欠け、しかも少数民族が抱える問題の解決法には触れていない、これが文学の限界なのか。
北大で開催された久しぶりに聞く、垂涎ものの講演であったが最後に会場からq&aで、僧職についておられる方から、「一神教とアニミズムの関係に対する質問」が出た。
それに対する通訳を介した返答の意味はよく理解できなかったが、もしも聞き違いでなければ一神教とアニミズムはマイノリティに対して同じ・・・云々と訳されていたのではないだろうか?
ル・クレジオはこの種の議論では必ずしも一神教と多神教を両極において論じてはいないと解釈してよいのか。

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2009年12月 1日 (火)

北風磯吉さんのお気持ち

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20世紀初頭、帝国主義が闊歩しつつあった時代とはいえ、アイヌ民族の方を愛国主義者に仕立て上げてしまっては論理的にも破綻している所か、もはや茶番劇、北風磯吉さんのお気持ちたるや、いかばかりだったのか。

国家の裏面にこの様な卑しくもあり、残虐な醜い顔があるにも拘らず、数年前には藤原正彦の「国家の品格」だの、安倍晋三の「美しい国」とやらの情緒的でもあり、自愛的フレーズが一時話題になりもした。
知識人、政治家等が時として恣意的に唱えるこれら三流以下の出版物、安っぽいイデオロギー臭をぬきにしても、批評に耐えうるだけの理論武装があったとは到底思えない。

文明国を目指した国家が異文化、異民族を騙し、蔑み、挙句に利用し尽くしている事例は愚生が直接見た限り、アメリカに限らず、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、アイルランドにもあった。だが異文化のぶつかりあいは歴史家のいう近代化への象徴的出来事としても決して免罪符としてはならない。

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日本人論をぶつ気などさらさらないが日本人ほど、異文化、異民族に対し、対応の異なる民族も珍しいのではないだろうか。
司馬遼太郎が言う様に、また人種別dna配列から分かる様に弥生以後、渡来人並びに縄文人との雑種交配が今の日本人を成したと云われているにもかかわらず、アジア系には差別感情を、アングロサクソンには羨望の念を、そしてフランスと名の付くものには憧れに近い感情を抱くこの大きな矛盾。
また、この地に今も根強く残るアイヌ民族の方達に対する、和人の下等な偏見、差別感情をときたま目にする。
和人のアイヌ民族に対する、優越感を内在するかの如き、愚かなracismの根っ子に一体何があるのか、たとえば世界の路地裏を歩き、匂いを嗅げば少しは分かる事でもある。

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