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2010年3月17日 (水)

おぬし、なかなかやるのー

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日本幽囚記、下巻、ゴロヴニン著、井上 満訳の中に艦長リコルドの手記がある。
お互いに大将と呼びあった高田屋嘉兵衛とリコルドのそれぞれ命、国運をかけた交渉事が最大にして、最高の読み所だろう。
司馬遼太郎も「菜の花の沖」執筆にあたり穴が開くほど読んだに違いなく、嘉兵衛に惚れ込んだのだろうか。

文中で1807年、エトロフ島で捕らえられ、シベリアに連行された船持ちとして登場する、良左衛門(レオンザイモ)という日本人がいる。
高田屋嘉兵衛はリコルドへ「良左衛門とは五郎次の事でアイヌの娘と一緒になった南部藩出身の門番で、船持ちではない」と説明している。

彼はオロシアに5年間拘束の後、日本で幽囚されているゴロヴニン艦長の交換要員として副艦長リコルドの船に乗せられ、再びエトロフ島の背信湾(泊湾)に連れて来られ、日本の島守とリコルドの交渉役として数回、露船ディアナ号と島の間を往き来させられ、最後に本船には戻らず、姿を隠してしまう。

ところが、後に松前藩で中川姓を給わり、オロシアで習い受けた種痘法を道南の大野の牛を用いて実施したらしい。
まず健康な牛に植付け、その痂皮より採取したワクチンを用いて函館、松前あたりで接種し、成功したと史書に記載されている。事実、明治初期に中川五郎次より直接接種された函館のお婆さんの明確な証言もある。
同時期、シーボルトも日本へ牛痘株を何度も持ち込み、種痘接種を試みているが、こちらはウィルス量の違いなのか、失敗している。

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ただ大きな疑問もある。
成功した中川五郎次はいったい痘瘡の苗をどのようにして見つけ、或いは入手したのか史書には書かれていない。

日本に公式に種痘が伝えられたのが1849年、そして緒方洪庵の除痘館開設より20年以上前、歴史のいたずらなのか、偶然、幸運の連続で奇跡的に死の淵より生還の後、北海道の片田舎での快挙、凄っごい男がいたもんだ、但し医者ではない。

ちなみに接種料金は2分、もしくはそれ以上とある、現在に換算すると間違いでなければ3万円以上となる。難しい定めなど必要ない時代、松前藩のお殿様より褒められたかな?

なお、文中には狡猾でしかも依怙地な良左衛門(レオンザイモ、五郎次)とオロシア側からの視点で人物像が表現されている。

私見、本邦では名誉回復があって然るべく申し上げ候成!!

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