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2011年7月30日 (土)

ある老漁師さん

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ご無理をお願いし、漁師の刺網漁に同船させてもらう。
この船頭さん、一年のうち休むのは元旦のたった一日のみで、とにかく一人で海に出ていなければ気が済まないご高齢の寡黙な人である。
深夜に出港、数十分で漁場に到着の後、前日に仕掛けておいた刺網をドラムという巻き上げ機でどんどん引き上げにかかる。
この夏の時期はマカジカ、マカスペに混じりカレイ類ではマツカワが結構掛かっている。

そのマツカワは大きなものでは60cm前後の♀魚とペアでふた周りほど小ぶりな♂魚が刺網のほとんど同じ部位に引っ掛かって上がってくる。
こんな大物が釣竿に掛かればなんて妄想を抱きつつただ見させて頂くだけだがたまらなく面白い。

くわえ煙草で背筋をピンと伸ばした老船長は時々ドラムに掛からない大物を目の前で獲り逃がしてしまっても、また大きな横波をくらっても平然と作業を続行する姿に何十年と一人で体を張って勝負し続ける、北海道の漁師の男臭さが何処となく漂う。

3・11東北地震の時、当然ながら太平洋に面したこの漁港にも大津波が襲来したそうで漁港に停泊していた自船を沖へ向かって避難するのがあと数分遅れていたならこの船もろともやられていたと独り言の様に仰られていた。

漆黒の中、ただ黙々と続く刺網漁の後姿に命がけの仕事につく人間のみが持つ深い味わいはそうそう陸の上では見られそうもない、昨今、日本人は自信喪失、更にはさい疑的でニヒリズムにおちいり、時に未熟化してゆく中でほっとする人に出会えた。

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夕食のマカジカの三平汁は正に最高、日本人に生まれてよかったと感謝する一瞬でもある。特にマカジカの肝は鮮やかなミカン色を呈し、腫大しているのか、或いは天然の脂肪肝なのか、とにかく比類なきお味である。

病的なまでに食意地の張ったフランス人は悲しげなガチョウに無理やり不味い高カロリー餌を過食といよりは飽食させて人工的に脂肪肝を発症させる。それが若しや肝機能障害を合併しているのではという疑いが払拭できない食材にフォアグラがある。

愚生の貧弱な舌ながら頂戴したカジカの肝はフォアグラの比ではない、食感共々正しく絶品であり、第一級の食材であるのは間違いないだろう。
「ウメーゾ、喰ってみろ!」と朴訥な一言は大いなるプライドの裏返しでもある。

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暗闇の中、左舷側上方に設置された照明が煌々と照らす中、時おり飛沫と一緒に浮かび上がる船長の顔の輪郭は一瞬、レンブラントの光の部分を彷彿とさせ、ヘミング・ウェイ/Hemingwayがカリブの海に登場させた老漁師サンチャゴを想起させるには充分であった。

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2011年7月17日 (日)

小林秀雄のいう常なるもの

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川端康成は問われ「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。なにを考え、なにを言い出すやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ解った例しがあったのか、観察にも鑑賞にも堪えない。そこに行くと死んでしまった人間は大したものだ。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは人間になりつつある、ある種の動物かな」と答えている。

若かりし頃の川端康成はなにも教条的な事を言っているのではない、しかしその生涯からしても大いなる矛盾を露呈したままの文豪の人生に愚生は明確な解答を持ち合せないがこのフレーズは名言である。

小林秀雄は「この世の無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは何時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物状態である。現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と述べているが(p67-70、モオツァルト・無常という事/小林秀雄著、新潮文庫より引用)正しく現在への遺言でもあろう。

ここで登場する’無常なるもの’と日本人のdnaに潜んでいる’無常’とやらは究極的には同根とも考えられるが、そもそも愚生の無常な頭内はその根本的な違いを納得するまで理解できうるほど進化はしていない、ましてその対極に恒常なる単語を引っ張り出してしまうとこの難解な文章は迷宮入りしてしまう。

だが小林秀雄は宣長のいったいろんな解釈を拒絶して動じないものだけが美しい一番強い思想であり、解釈だらけの現代には一番秘められた思想を‘常なるもの‘と表現しているにしても、その巨石のような’常なるものは’東北震災以降ぐらぐらと揺らいでいるのも事実であろう。

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キーワードは’ある種の動物‘であり‘見失った常なるもの‘にある。
鎌倉期の乱世に生きた人々は一言芳談抄の中で’いつわりてかんなぎ(巫)のまねをしたるなま女房’まで登場させ、今生に限らずともその平安を願ったが目先のご利益優先の為の屁理屈だけをのたまっている昨今の政治家、ジャーナリスト、御用学者等の多くはそれが自らを含む全ての消失につながる危険性をはらむ定理と知りつつ、矮小化しながら’ある種の動物’を安っぽく、そして痛々しく演じている。

それ以上に小林秀雄のいう’見失った常なるもの’は全くといってよいほどでてこない、鎌倉期同様、乱世の今こそ再考すべきではなかろうか。

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