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2011年7月17日 (日)

小林秀雄のいう常なるもの

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川端康成は問われ「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。なにを考え、なにを言い出すやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ解った例しがあったのか、観察にも鑑賞にも堪えない。そこに行くと死んでしまった人間は大したものだ。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは人間になりつつある、ある種の動物かな」と答えている。

若かりし頃の川端康成はなにも教条的な事を言っているのではない、しかしその生涯からしても大いなる矛盾を露呈したままの文豪の人生に愚生は明確な解答を持ち合せないがこのフレーズは名言である。

小林秀雄は「この世の無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは何時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物状態である。現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と述べているが(p67-70、モオツァルト・無常という事/小林秀雄著、新潮文庫より引用)正しく現在への遺言でもあろう。

ここで登場する’無常なるもの’と日本人のdnaに潜んでいる’無常’とやらは究極的には同根とも考えられるが、そもそも愚生の無常な頭内はその根本的な違いを納得するまで理解できうるほど進化はしていない、ましてその対極に恒常なる単語を引っ張り出してしまうとこの難解な文章は迷宮入りしてしまう。

だが小林秀雄は宣長のいったいろんな解釈を拒絶して動じないものだけが美しい一番強い思想であり、解釈だらけの現代には一番秘められた思想を‘常なるもの‘と表現しているにしても、その巨石のような’常なるものは’東北震災以降ぐらぐらと揺らいでいるのも事実であろう。

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キーワードは’ある種の動物‘であり‘見失った常なるもの‘にある。
鎌倉期の乱世に生きた人々は一言芳談抄の中で’いつわりてかんなぎ(巫)のまねをしたるなま女房’まで登場させ、今生に限らずともその平安を願ったが目先のご利益優先の為の屁理屈だけをのたまっている昨今の政治家、ジャーナリスト、御用学者等の多くはそれが自らを含む全ての消失につながる危険性をはらむ定理と知りつつ、矮小化しながら’ある種の動物’を安っぽく、そして痛々しく演じている。

それ以上に小林秀雄のいう’見失った常なるもの’は全くといってよいほどでてこない、鎌倉期同様、乱世の今こそ再考すべきではなかろうか。

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