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2011年12月25日 (日)

牛丼1杯、280円

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各牧場には馬頭観音さんが祀られ、速く走れないサラブレットさん、子供を産めなくなったお母さん馬達を供養している。
また獣魂碑も同じく、従順なこころと余りにも澄んだ眼を持って無垢な生き様を晒した動物たちを祀り、供養している。
しかし今、厚労省の言い方を借りるとそれらの供養塔は動物性蛋白源に対する免罪符でしかないのかもしれない、それを不可避的に良としても、不平不満を語らず時には家族以上の存在でもあった者達に対する人々の深い想いが込められているのだろ。

ユダヤ人を両親にもつ、ピーター・シンガー/peter singerは’なぜ動物を喰らう事が道徳的に是認できるのか’と問われ、1970年代に著した「動物の開放/animal liberation」は世界的ベストセラーになった。
シンガーは功利主義を用いて理路整然と幸せは善で、苦しみは悪とお題目を唱えたところから動物権利運動/animal rightsだの/animal peaceといった社会運動が起こり、それは主にアングロサクソン、ゲルマンが多く住む国でより活性化し、各国の実験動物を扱う研究施設は動物愛護団体から襲撃を避ける為に恰も核シェルターの如き様相を呈していたが日本では殆んどなかったように思う。

いまでも彼等は菜っ葉しか食べないとする菜食主義という欺瞞に満ちた行動を取り続けているのか甚だ疑問だが功利主義に含まれる判断基準の一つである’動物の苦しみ’はデジタル化、図表化できず、また生物の生きる価値を何故か’知性’に求めた為、必然的に主観的要素が介入してしまった。つまり言語を欠くが故の本論の難しさと共に何故かしっくりしない論法に十人十色の直観と本能も入り込み、本来学問の持つ怪しさも少なからず感ずる。
生物の生きる価値を’知性’に求めたことは必然的に種による差別化が生じる、ゆえにカンガルーだのクジラを喰う、喰うなの屁理屈の応酬に繋がるがその頃はまだ捕鯨が槍玉に挙がっていないのも妙である。
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昨今、福島原発事故地周辺で立ち入り禁止区域が設定されそこには痩せこけたいろんな種類の動物たちが画像として映し出され、その中には軽度の放射能を被って逆に生き永らえた肉牛さんの姿もあった。
それを茶の間で眺める我々は肉牛さんに対し直観的になにを思うのか、その問いを己の中に引き込み問い直すか否かは勝手だが、束の間の自由を得て喜び遊び回る肉牛さんに拍手を送る人もいれば、哀れに思う人もきっといるだろう。

ホモサピエンスが遠い親戚である多毛の四足動物を考える場合、今後如何ほど動物の脳科学が進歩しようが動物の内面を我々は完全には理解できないだろう。
しかし屠殺場/食肉処理場に搬入された動物がそこで血の匂いを嗅ぎ、そこがどんな所か分からない動物などいない。

大脳が破壊され、放血されるまで暫しの時間、その脳内の活動電位とある種の鳴き声を聞いた人のミラーニューロンの活動電位とはたしてどちらが極限に近いのだろう。
肉を喰らうことに対してアイヌはその魂を送りカムイに心より感謝してから頂き、仏は抑制的ながらも否定せず、イズラムは何故か豚だけを断ち、西洋の神助に至っては神よりの贈り物とそれぞれが勝手に都合よく考えた。
それぞれのカミ、ほとけ等はこんな非人間的な論理を知らず知らずのうちにあまりにも人間的に解釈しているがそれをして思想という人もいる。

それらmaterialsはやがて化粧品、医薬品などにも形を変えるがピーター・シンガーは自説の対側に潜む数倍の逆説と葛藤している様子が行間に垣間見える。
しかし愚生はその説を大きく凌駕する肯定或は否定説にいまだ出会っていない。

そんな幼稚な事を書きながら牛丼1杯280円が高いか、或いは安いか思いめぐらす悪徳なもう一人の愚生がいる。

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