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2012年1月27日 (金)

テキサスの大風呂敷

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テキサス/texasといえばサンアントニオ/san antonioが思い出深い。
アラモの砦がありそこにはインディアンと闘った幼年兵の辞世の言葉も記されていた。
メキシコ国境近くに行くほどメキシカンを多く見かけるのんびり風がいつも吹いている、だだっ広い、いたって刺激の少ない土地柄という印象がある。

御地を何度か訪れた際にお世話になった方がいる。
帰国後、日本的想いを込め、お礼のしるしとして花柄模様の大きな風呂敷を送付、快く受けてくださった。
くれぐれも使用法を間違わないようにと但し書きを添付して!
しかし物を包む習慣のないアングロサクソンである、やはり大間違いは起こった。その女性は日本のネッカチーフとしてその大きな風呂敷を首に巻いて通勤しているとか。
まるで日本の屋台のおばちゃんと同じだが仮にその大きな風呂敷で頭を覆おうと腰に巻こうとご本人がお気に入りならそれで良い。愚生はただ笑いを堪えていればそれで済むことである。

お住まいはアーリントン市、ご多分に漏れず人種のるつぼである。
またテキサスレンジャーズ/texas rangersの本拠地でもあり今、ダルビッシュ有投手のトレードで盛り上がっているとか。

そのダルビッシュは血族的には日本人の母に生まれ日本で育ったらしい。
今、’がんばれヤマト魂’一色の報道は正直なファン心理を代弁しているにしてもダルビッシュ自身それを受容しているのか、迷惑と思っているのか、ダルビッシュのアイデンティティ/属性/identityを愚生は知らない。
そもそもナショナリティとアイデンティティは一致すると短絡した島国的思考が生み出すごった煮の如き報道姿勢は如何なものか。

もしも外貌はアイデンティティの吐露だとするなら、ダルビッシュのひげは伊達ではないのですぞ、ファンのみなさーん!!

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生物学的な日本人、はるか昔にハイブリット化している日本民族とやらのアイデンティティ/拠り所をなお血族に求めるのも、また出生地に求めるのも好き好きだろう。
また我々は日本人というアイデンティティをいつの時代まで遡って考えているのか興味深い。明治以降か、中世か、弥生時代か、縄文か、或は二十数万年前のアフリカに求めるか、果ては数百万年前の類人猿に求めるのか、それこそAKBからチョンマゲ、お猿さんまで色々ある、さてどれを選んでいるのか。

しかし我々は’日本人’というアイデンティティを他国の民族に押し付けた愚かさを戦争より学習した筈である。

また北海道には維新という大革命で蝦夷に渡った喰いっぱぐれのサムライどもが先住者に仕出かしたとんでもない悪行、つまりアイヌ民族のアイデンティティを剥奪し、つい最近まで彼らを土人と蔑んだ醜い歴史がある。勿論、喰いっぱぐれた御先祖様の子孫が宣う矛盾は承知の上である。

余談だが北海道には腹案という大風呂敷をおっぴろげて日本政界のカオスを見事に演出しているノーテンキな御方がいる。
自らのアイデンティティは宇宙人と名乗る気楽な御仁に効く妙薬を誰か持ってないか。

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2012年1月 8日 (日)

タケゾウちゃん

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武蔵の独行道の一つに「我事に於いて後悔せず」として登場する’後悔’という単語がある。
小林秀雄は自著の中でそういう小賢しい方法はむしろ自己欺瞞に導かれる道であり後悔したければするがよい、いずれ今日のことを後悔しなければならぬ明日がやってくるだろう。
日々、自己批判に明け暮れる道をどこまで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。
別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろと武蔵は語っているのです、と述べている。

菊池 寛もこのフレーズが好みだったらしく揮毫を請われればよく書いたらしいがはたしてその深意をどの様に解釈したのか興味のあるポイントでもある。「我れ事」と書いていたとされる直筆の書を愚生はまだ見ていない。

以下、思いつくままに。
禅僧の云う’無我’というもの、その’我れ’を完全焼却して完全な’無’なる状態が創られたなら後悔というカビは繁殖出来ないし、そもそも論理的にも成立しないだろう。
それが不完全焼却状態であるならばそこに有機質が残存する以上、’後悔’というカビは条件次第で繁殖するかもしれない。

では何故、こんな単純すぎる屁理屈を書くのか?
理由はいたって簡単、そもそも’無我’なるものを内から自得せず、或は自得できずに書く矛盾を曝すためだ。
そんなことを踏まえた上で小林秀雄を読みかえすのもまた楽しい。

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作家は「私の人生観」大和出版p,42で次の様に述べている。
それを武道家の云う「我が事」と読むならばそれは今日まで自分が生きてきたことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるのでしょう。そこに行為の極意があるのである。
その極意に通じなければ事前の予想も事後の反省も影と戯れる様なものだと宮本武蔵は言っている・・・。

どうやら「我れ事」と「我が事」の間以上に戦乱期の’もののふ’と作家の間には溝がありそうだが愚生の理解度はいまだ宮本村のタケゾウちゃん以下のものである。

出頭してきた元オウム信者の平田容疑者に問うてみたい。
人生最大のミスマッチだとするならば17年の長きに渡って我が命を賭した信仰とやらと自身の間にもし’後悔’なるものがある、若しくはあったのなら殺った、撃ったなどの仔細に興味はない、平田修行者が観る’後悔’の意味を知りたい。

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