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2012年1月 8日 (日)

タケゾウちゃん

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武蔵の独行道の一つに「我事に於いて後悔せず」として登場する’後悔’という単語がある。
小林秀雄は自著の中でそういう小賢しい方法はむしろ自己欺瞞に導かれる道であり後悔したければするがよい、いずれ今日のことを後悔しなければならぬ明日がやってくるだろう。
日々、自己批判に明け暮れる道をどこまで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。
別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろと武蔵は語っているのです、と述べている。

菊池 寛もこのフレーズが好みだったらしく揮毫を請われればよく書いたらしいがはたしてその深意をどの様に解釈したのか興味のあるポイントでもある。「我れ事」と書いていたとされる直筆の書を愚生はまだ見ていない。

以下、思いつくままに。
禅僧の云う’無我’というもの、その’我れ’を完全焼却して完全な’無’なる状態が創られたなら後悔というカビは繁殖出来ないし、そもそも論理的にも成立しないだろう。
それが不完全焼却状態であるならばそこに有機質が残存する以上、’後悔’というカビは条件次第で繁殖するかもしれない。

では何故、こんな単純すぎる屁理屈を書くのか?
理由はいたって簡単、そもそも’無我’なるものを内から自得せず、或は自得できずに書く矛盾を曝すためだ。
そんなことを踏まえた上で小林秀雄を読みかえすのもまた楽しい。

Imgp1728
作家は「私の人生観」大和出版p,42で次の様に述べている。
それを武道家の云う「我が事」と読むならばそれは今日まで自分が生きてきたことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるのでしょう。そこに行為の極意があるのである。
その極意に通じなければ事前の予想も事後の反省も影と戯れる様なものだと宮本武蔵は言っている・・・。

どうやら「我れ事」と「我が事」の間以上に戦乱期の’もののふ’と作家の間には溝がありそうだが愚生の理解度はいまだ宮本村のタケゾウちゃん以下のものである。

出頭してきた元オウム信者の平田容疑者に問うてみたい。
人生最大のミスマッチだとするならば17年の長きに渡って我が命を賭した信仰とやらと自身の間にもし’後悔’なるものがある、若しくはあったのなら殺った、撃ったなどの仔細に興味はない、平田修行者が観る’後悔’の意味を知りたい。

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