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2012年3月27日 (火)

方舟の怪

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ケンタッキー/kentucky行きの便は西海岸に用がない場合、殆どシカゴ・オヘア空港で入国手続きを済まし、数日レキシントン/lexington/kyで過ごす。
その後は自由にmanhattan/nyに飛び骨董屋廻りか、釣り情報次第でカナダでロッドを振り回すか、である。

ある年、そこから北側のシンシナティ/cincinnati/oh方向に行った所に創造博物館/creation museumなるものが出来た。
車を貸すからそこに行ってこいと知人らは勧める。彼らは創造博物館をある種の公園程度にしか思っていないみたいだ。
6日で地球を創られた耶蘇の神さまをあまり信じていないアングロサクソンに何故かある種の安堵感を抱くがきっと少数派だろう。

この創造博物館はクリエーターが6千年前にこの世界をお創りになったと説き、ノアの方舟/arkには何故か恐竜さんも同船させている。
彼等はそのように主張し、信仰する。

「生物は創造主により創られた」と耶蘇が云ったとヘブライ語、英語経由で日本語に変換されている以上、はじめは誤訳ではないかと疑いもした。
その旧約聖書にダウィンは進化論/darwinismという新しい武器で噛み付き、創造論/creationismをケチョンケチョンにやっつけた結果1996年に至り、ローマ法王は進化論を追認せざるをえなくなる。

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キリストが自説を否定されるとは神様の勉強不足であり威信は低下する。
絶対者であり彼らの偉大な創造主のセオリーが完全否定されてはどうにも収まりのつかないのがアングロサクソンである。
自惚れたとは言わないがごく一部のキリスト教原理主義者はその進化すらもインテリジェントデザイン/intelligent decisionに基づいていると勝手に主張する。

nasa宇宙飛行士の多くがその宇宙から’地上に神を観た、神しか創り得ない’と真顔で述べるのも或はその延長線上なのか、だが最先端の科学者でもある宇宙飛行士等は実施する科学と神様の存在に自らの心に整合性を持たせることは果たして可能なのか、そしてそれは一つの同じ神を持つキリスト教、イスラム教、ユダヤ教を信仰する全ての科学者に向けられる問いでもある。
この根源的な疑問を払拭できないがここで問うのは本旨ではない。

そこで憎っくき進化論を徹底否定するために創造博物館を造るところがいかにもアメリカらしいがなんと60%位のアメリカ人はいまだに創造論を信じ、学校で進化論を教える事に否定的な行動をとる親もいる、これも又アメリカなのだろう。
愚生はこの思考を全く理解できない、だが許容はできる。

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しかしここからが問題である。
アングロサクソンのごく一部に信仰とやらから幼稚な保守的主張が出現するのはいただけない。
信仰心から何故かポリティカルに、ある種の驕った輩がゴミ箱のふたを開けるが如き、腐臭漂うオンリーパワー的思考を撒き散らすことがある。

全くもって大きなお世話だがそれはサイイド・クトゥブ著、第三書館出版、「道しるべ」にある、イスラム社会以外は人類の敵と述べ(p,62)、ユダヤ教徒、キリスト教徒は多神教徒になった(p,72)と短絡したサイイド・クトゥブがアル・カイーダ、ウサマ・ヴィンラディンを生み出した原理的思考に共通する。

人はなぜ、心の平安を説く宗教とやらが時として生み出す他者の平安を乱す思想を容認するのか、という古き問いである。

いわしの頭の苦味ばしった上品なお味は焼酎のつまみだけでいいと考える野暮な雲水如きは解を持たない。

禅師のいう、喰うて、漉して、寝て、起きての中に宿る邪正一如、厄介でもあり、面白いところでもある。

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2012年3月16日 (金)

君が代/吉本隆明のこと

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吉本隆明の訃報に’君が代’が頭をよぎった。
日本人の皇室に対する、あたかもコンパニオンアニマルに対する生殖、繁殖を乞うが如き病的思考様式がある。
それは強烈なストレスとなって宮中の皇后、妃殿下に極度の心労をもたらし、それに起因するそれぞれの精神障害は一国民として見るに忍びないが槍の如き意見は浴びせ続けられる。
皇室のファッションを取り上げる女性週刊誌から国体論のてっぺんに位置すべきを絶対のテーゼとする脂ぎった御仁まで自由のお国とはいえ、何故か忍びない世相でもある。

そもそも明治期に至り、それまで午睡を楽しんでいた大君を突如万系一世という大うそを持って担ぎ出し、覚醒せぬ間に現人神に祭り上げ、それこそ神様役から大元帥役、果ては象徴役にいたる様々な演技をして頂いていると言うべきか、或はいまだにさせていると言うべきか人それぞれだろうがその阿呆らしさを知るほど’君が代’の’君’が持つ意味、つまり’大君’を歌詞に込める見え透いた欺瞞はある意味、腹立たしい。
それを一番熟知しているのが或は皇室の住民なのかもしれない。
皇室の住民はそれをはたして自然体で聞いているのだろうか。

21世紀に至り、宮内庁に多額の国費を注ぎ込み、従前通りの国事行為、神様役を演じていればそれで済む時代では既にない。
今はまだ誰も口には出さねど、上記のような外貌に集中する好奇な目線、或はティーパーティの絶対者の存在の如く偏狭な国粋思想家がそれをして絶対的存在とのたまう愚行が続けば天皇制の存否を問う日が来るのを早めるだけのようにも思える。

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また識者の中には宮中の住民に人権はないと言う、確かに一理はあるが発言する事は慣例上許される。ならば日本人たるもの歌う側の屁理屈をこね回すだけでなく、歌われる側の論も聞いてみようではないか。

天皇に訊け、皇太子に訊け、そして必要ならもう少し明るく、なじみやすい唱に変えればよい。

戦争を終えて尚’君が代’を国歌として遺残させた輩は天皇制存続という強い意味合いを歌詞に込め、宮中の住民等のいう’開かれた皇室’という言説にも同じく皇室のサバイバル臭を多くの日本人は嗅ぎとるがそもそも天皇なるものと、制度としての天皇制は全くの別物であり、後者を全ての日本人が肯定しているわけでは決してない。

文明史観として天皇制はなくなったほうがいいが天皇主義の深層はなくならないと述べた吉本隆明『天皇制の基層、本人&赤坂憲雄共著より』、またそれとは真逆に日本文化のど真ん中に天皇をすえ、それを思想、行動の原点とした三島 由紀夫が憂いたものは将来の天皇制の劣化であったが共に的を的確にえている。

君が、君を案じ、君の将来のために’開かれた皇室’を演ずるのであればまず’君が代’は変わらなければならない。
それを一歩として両極に座した者等が賑やかな議論を再開するのも御苦労な話だが大思想家の吉本隆明、三島 由紀夫の心境やいかに。

なにより橋下大阪市長の参議院不必要論を掲げるくらいの発言力があるならば’君が代’を変えろというのは容易いことでもあり、法律を守れなどと空疎な能書きをたれるよりは日本人の優れたバランス感覚を内に持つ常識を優先すべきである。

責は’君が代’にある。

常識をわきまえた人はそんな如何わしい唱を歌わない。

歌わない彼等に非はまったくない、橋下さん!

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