« 2012年4月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年6月10日 (日)

生理と病理の間で

Imgp2815
自然科学の世界では生理と病理の境界線はほぼ線引きできるが決して完全ではない、完全なる科学はない、そこを研究者等は真剣に探っている。
分野は異なるがその視点で再度、小沢一郎の所業を線引きするという。

加藤周一は講演集著、「語りおくこといくつか」の中で倫理は法律を内面化したものといい、倫理を外面化したのが法律といったが小沢一郎にとって倫理なんて所詮は浮き草の様なものだろう。

思いつくものに法律も倫理も無視する極右がいる。愚生は彼等の行動、思想を否定する。しかし変革期にしばしば登場し日本人の一部には静かな賛同者もいた、現在もいる。
だが今では胆のすわった輩もcastrationされたのか、自称民族派を名乗ってせいぜい拡声器の音量を少し上げたにしても、竹下vs皇民党の如く、小沢は貰い受けた時同様に低俗な輩の袖の下にお包みを差し入れfade-outするのかと馬鹿な想像をしてもしかたない。

また小沢一郎被告本人を含む全ての日本人の中で本当に小沢を無実だと信ずる人はたしているのだろうかなんて想像するのは止そう。

Imgp2857_2
では本当とは何か、真理とは何か。
芥川龍之介の『藪の中』で、そもそも本当はあるのか、なにが本当なのか、本当とは何だと問い、同じくピラトがキリストを捕まえて「この人はユダヤの王様で、我は真理であると言っているけど、真理とは何か」と問う。

等々人は昔から真理を追求してきた、しかし小沢一郎裁判の下した無罪判決をよくみると潜在している罪の非証明の証明に過ぎないが被告人席に戻された小沢一郎はそれをして真理とのたまい、そこから’国家に最後のご奉公’のフレーズを誘引している。
アイデンティティを政治というカオスの中に求め続けたあげく’国家に最後のご奉公’を錦の御旗にカオスの主演者となった男が自身の口から飛び出す空疎な社会正義とやらを唱える滑稽な生きざま、そしてその清濁などに愚生はもう興味ない。

政治哲学を欠いた小沢一郎が善者を演じ続け、逞しい保身術を御披露したところで人間存在の二重性が鼻につく、そもそも人間存在の二重性なんてありえないだろう、必ず疼痛がともなう。

その疼痛を避けるために山本七平さんは「目標としたこうありたい自分」と「結果としての自分」をつかみ出し、「自分に折り合いをつけろ」と残し、懐奘は師の賜った紫衣をその随聞記に残し、小林秀雄は後悔、自問、そして自答について鋭く説いている。

勿論、この難しい問いは形を変え愚生自身にも向けられている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年4月 | トップページ | 2012年7月 »