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2012年9月19日 (水)

ニヒルを演ずる

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一昨日、日本vsイスラエルのデビスカップ戦は見事なイスラエルの勝利で終えた。
なぜ国別対抗戦はときめくのか、あるひとは’ナショナリズム’の戦いという、ならば心情的には地域対抗の綱引き合戦と同類であろう。

その昔、ジョン・マッケンローがイワン・レンドルをチキン/chickenとこき下ろし、挙句にその語尾にはヘッドだの、ハートを付けた。なんとも酷い単語だが発する側にも同じチキンが蠢いていたことを観衆は見逃さず、それらを含めてゲームに酔いしれた。

中国では尖閣問題で右派がそれぞれに烏合し、いよいよチキンが賑やかに危ういショウタイムの始まりを告げた。
根っこにはもちろん’ナショナリズム’が潜む、それをときに民族主義と訳される、が愚生はそれを誤訳と考える。

ユーラシアの東端にある日本に住む日本人なるものは所詮人種の混成チーム、言い方を変えればその昔に韓、中からの移民が縄文人と交雑して出来た雑種/ハイブリット種である。またイスラエル人と称する人種もまた同じである。あえて取り上げることもないがイスラエル人には白人、黒人の他、少数だがイスラム出身のアラブ人も含んでいる。
それはdnaレベルでも証明されている。
従って今じゃピュアなdnaのみで構成される民族なんてありゃしないが国境という線引きでそれは一気にヒートアップする。
俺達のものを取った、盗られたと餓鬼の喧嘩の如く、だがこちらはクーリングダウンの方法を持ち合わせていない。

「近代日本のナショナリズム」/大澤真幸著には’ウルトラナショナリズム’と表現されている思想の持つ嗜好性、毒性、発生メカニズムを論考しているが特段目新しい論はない、そもそもそこに何がしの緩衝剤を期待する愚生の愚かさを改めて知らされるだけである。

所詮、’ナショナリズム’なんて食べ過ぎ注意と但し書きされた珍味程度のものでしかないが飲兵衛には必要かくべからずの代物でもある。
また猫にあってはマタタビのようなもの、酔い、ふら付き、知覚鈍麻の症状をほぼ正確に誘引するが閾値を越えると重大な結果を伴うのは言うまでもない。

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日本人たるものイデオロギー的ポジションは十人十色でいい。
「そんなもの、くれてやれ」の意見もあっていい。
ただ一点、団塊の世代の愚生には気になることがある。
メディアに流れる画像を是非、善悪、正邪を取り払って見ると彼の地のきっと一握りの若者を中心としたエネルギッシュなデモ、破壊行動は催涙ガスにまみれたかの10.21新宿騒乱事件を思い出すが、対照的に日本に住む若者の無批判、無行動ともみえる思考の根っこにニヒリスティックなものが宿るのだろうか。

ならば日本の若者らは各々真のニヒリズムと真摯に格闘したのか。
所詮、愚問だと叱られるにしても、ニヒルを演ずるにはそういう礼儀が必要であろう。

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2012年9月 2日 (日)

ある小児科医の目線

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「古事記」なるものを書いた人は朝鮮半島の国々、唐、天竺を知っていたのだろうがそれらの創造に一切触れていないのは妙な気もする。
また18世紀にオランダ製の世界地図が日本に入ってきても本居宣長の世界観は神代のそれから変わらず、日本が世界の中心であって、世界があってその一部分として日本があるとは考えなかったところがとってもおかしい。

一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団の領域を「ここ」として意識する。
そして「ここ」から世界を見るのであって世界秩序の全体からここ/日本をみるのではない。
村社会のこの千年にわたる原理的思考方法は莫大な授業料を支払っても21世紀に連綿と続いているらしい。

今、日本は韓大統領に徹底的に蔑まれている、韓国はどの為政者も政権末期になると目先の得点のためポピュリズムとナショナリズムを合体させる性癖があるようである。

今、日本は尖閣に上陸した、たくましくもあり何か欠落した中国系の右翼さん等に怒られる国家の態である。
自尊心を満面の笑みにただよわせ英雄として帰国した右翼さんと、同時に物悲しくて焦点の定まらない、加えてこちらも何か少し欠けている脂ぎった野田首相の画像は世界に網羅された華僑のメディアネットワークに「卑しい小日本」として徹底して流されている。
あるイギリス経済誌によると将来の日本の経済力はgdp比で韓国の半分になり、中国はいずれ世界一となる予想らしい。

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かならすしも「から心」と「やまと心」の二項対立とは思わない、が伊勢の松坂で小児科を開業していた本居宣長はそのお母さん達の心の深部に古より引き継がれている「やまと心」とやらを「古事記」までさかのぼって研究、考察し、後世に丸山眞男はそれを日本人の奥底に宿るものとして、また加藤周一は土着観として研究し、さらに大江健三郎はその毒性を主張しているのは前ブログに記した通りであろうか。

愚生の住む’村’から’日本国’まで日本人insiderと異人outsiderの区別、差別を必要とする思考を持ってして、例えばアウシュヴィッツ、南京虐殺という応用問題に対して前者は正対して解決し独仏の信頼関係は回復、本邦ではそれを’水に流した’。

’ムラの内側’、’ムラの境界’で生じる問題を’水に流す’先人の教えを美徳とするムラビト日本人、そして過去を水に流し続けた政治家に棲む旧ヴァーションの「やまと心」は悩ましいかぎりと思いつつ愚生にもしっかりと宿っている。

一方、お向かいの国々は反日といって謳うラプソディに痴的に酔う。
しばしの宴でいつもの病的な狂態を晒すのも勝手だろう。

加藤周一の残した...いま、ここ、の問いでもある。

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