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2013年1月31日 (木)

森町の鷲ノ木遺跡-3

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三浦誠一はまた、自然は人間が支配を許されたもの、自然を人間の財だと考える社会と、人間は自然によって生かされていると考える社会とでは、自然に対する態度や振る舞いに、おのずと違いが出てこようと残している。(三浦誠一著、滅びのアテナ/北樹出版p20より引用)

古くは松前藩史、菅江真澄記、武四郎記に、そしてイザベラ・バードが135年前にたどった旅行記にも同じく、蝦夷地は昼なお暗い鬱蒼と生い茂る巨木で覆われた大地であったと記されている。

それらの書には先住者のアイヌに対するrespect and/or disrespectを持った視線と両極に分かれるがそれは別項に譲るとして今の北海道と比べてみよう。

誤解を恐れずにいうと地の利を生かした一次産業は伸びた。
収奪型の産業も伸びた、たったそれだけである。

そこには縄文人の説いた’再生産’という考えを決定的に欠いた。
よって人は資本を投入してわれ先にと大木をお金に換えた、見境もなく御魚さんを獲りまくった。
その結果、今や北海道の山々に大木は一本もなく、御魚さんは激減するという余りにもお恥ずかしい、みっともない現実に加え、次第に空き農地、廃屋が目立ちはじめ、今や小さな農漁村は後継者難である。

人は原罪を肯定しない、故に’近代化’と響きのよい表現をし、近代人と自惚れ、自然を人間の財だと考える社会がなした悪行のなれの果てある。

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愚生の目には北米に散見されるゴールドラッシュという宴の後の廃墟と化した街に並ぶ、酸化しきれない鉄くずの様な工場群、そこにはシャブを回し射ちした注射器が散乱し、廃車が転がり、更には高級材のヒノキ、栂材を伐採し尽くした跡に、無残に悪臭を放つ木工場、その横に建つ崩れかけた酒場を兼ねた女郎屋とだぶって見える。

そこにわずかに居残る虚ろな目をしたご老人に聞くと、いっときの、腹いっぱいの、過去完了の自慢話に目が輝くが所詮は現実否定のなにものでもない。
それはまた、日本海沿岸のニシンを獲り尽くした、いっときの栄華を物語る老漁師の寂寥に似る。

成し遂げた、めいっぱいの男の美学は確かにそこにあるが・・・。

アイヌの古老には、北海道の川は多少の雨が降り続いても決して濁らない川だった、と教えて頂いた。しかし今では小雨でもすぐに泥濁りとなる現実ひとつをみても北海道で環境哲学はいまだ無力、ましてやそれを来たる大獄への予兆とする視点はない。

縄文人はありったけの叡智をふりしぼって地上のあらゆる生物、無生物に神を宿らせ近代人にそっくり手付かず引き渡した。だが近代人はそれをシロアリの如く、喰い尽くす作業を進歩とのたまい、ゴキブリの如く生殖し、その生存許容限界をはるかに超えてもまだ無制限に、凄まじい勢いで増殖している。

自己拡大による過飽和の恐怖をハーディンは救命艇の選別に例えたが、果たして救命艇はどこに行くのか。
人間のあり様に対する根源的問いに蓋をし、いずれ実存を根底から絶対否定する日を迎えようというのが現代文明、ならば哲学なんて無力なものと縄文人はシニカルに笑っているだろう。

                            つづく

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