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2013年1月 7日 (月)

家訓と大義

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会津、東北人が今でも松平容保に敗者の美学を求めているのか否か、愚生には分からないしそもそも興味がない。
鳥羽・伏見の戦いで会津藩主の松平容保は敵前逃亡すると星 亮一著「会津落城」に書かれている。
権力者が他権力と対峙した時に自失した例は今に限ったことではないという事、そして藩主自ら会津武士がもつ​アイデンティティを否定したことになる。

大いに傷ついたであろう名門会津のナショナリズムは想像するに難しくない、しかしそれが会津消滅の直接原因ではなく、徳川将軍家とルーツを同じくする会津藩主間の契りにあったとしても、権謀術数を張り巡らす薩長は会津藩のかたくなな思考法を見抜いていたのか。錦の御旗は圧倒的兵力を備える官軍にたなびき結果は戦う前についていたと言いたくはないがあまりにも痛ましい。

司馬遼太郎は会津藩を一個の思想藩といい、その思考法を自著、「歴史と視点」の中で藩祖、松平(保科)の残した徳川将軍家に対する絶対忠誠を説く憲法の如き、「家訓十五条」を’異様’と書いている(P,130)。
愚生はこの’異様’を今に通ずるドグマティズムと解釈する。

平時に作成された原初的で余りにも反時代的遺物のような「家訓」を300年後の大革命時において尚、こだわり続けた、或いはこだわらざるをえなかった思考が自藩取り潰しよりはるかに酷い惨劇に結び付いたのか。

「家訓」と相並ぶ城山三郎の至言でもあろう「大義」を並列してみよう。
会津武士は「家訓」に従わなかった輩は自裁して先祖に詫び、昭和の軍参謀は「大義」を出世の肴とした。
つまり武士は「家訓」に命をかけ、皇軍の参謀は「大義」の結果責任を問われると真っ青になって泣き出し、今の政治家は「大義」の責任を問われると平気で嘘をつく。

結果としての歴史は一つしかないが歴史に’もしも’はおおいにあっていい。
河北以北は一山百文と言われようとも、先見性を決定的に欠いた会津藩の世襲首脳陣にあって、もし松平容保がひ弱な凡々に止まらずに広く諸藩の動向、清、韓国を含む西欧諸国の情勢を分析しフレキシブルに自らの統帥権を発揮していれば、もし見廻り組、新撰組などのヤクザなテロリスト集団を指揮することがなかったなら、もし自らの統帥能力に限界を感じ竜馬のような有能な家臣を登用していたなら等々あげたらきりがない。

江戸は無血、ならば同じく避けられた会津虐殺史という想いは現在でも会津人ならずとも持っているのだろう。

結果、会津の市街戦で会津藩士の屍は長く鳥獣に晒され、明治以降、会津人の不憫は今に至るとも言われている。

今、會津から会津へ、そしてFUKUSIMAへと変わり、眠っていたそのたくましいdnaを新島八重に託し、ジャンヌ・ダルクを引っ張り出す一部の世相は会津、東北人への応援歌にして、すっかり会津化してしまった今の日本への警笛にしても古今、日本ではなぜ有能な政治家にめぐまれないのか。

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