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2013年2月18日 (月)

見てくれ

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麻生太郎の演出し過ぎの苦みばしったお顔と、その珍妙なファッションはどう逆立ちして観ても21世紀にはミスマッチとお見受けした、ならば楽しく述懐。

本来、ステテコ、腹巻き姿で焼き鳥屋でもやっていれば楽しい人生を送れたかもしれない御仁がなんと、靴のカカトが20cmもあろうか、加えてオーソン・ウェルズが如き、黒の帽子を渋く、斜めに、また時代錯誤も甚だしい、引きずるような黒のロングコート着用で颯爽と機上の人となった。

あまりにもコピーがインチキくさいとオーラを放つプロトタイプをも傷つけてしまうが、ご本人自身のファッション感覚の劣化をあげつらう気はさらさらない、もともと持ち合せていないのだから、それより衣厚の天ぷらを揚げる板前のような、専属のファッションデザイナーの遊び心がなんとも愉快ではないか。
今頃、このファッションデザイナーは笑い転げているやも。

その昔、咸臨丸でサンフランシスコに到着したお侍さんらは当然ながら、好奇の目線に晒された、だがそれが尊敬を持った目線に代わるにはあまり時間はかからなかった。
それはアングロサクソンに礼節、品格、教養が認められたのであり、けっして月代、二本差しなどの外貌、ファッションではない、などと言ったところでしかたない。

同じく北海道の厳寒期の1月早朝、登校する女子高生らの多くは素足に短いスカートを着用している。
その膝小僧、頬っぺ、お鼻の先端は真っ赤であまりにも痛々しいがファッションは時に残酷なものだ。
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一方、葬式では後方に座すご高齢の方の中に、はやくお経の終えるのを待ちながらも何故か坊さんのファッション、特に袈裟の色にこだわる御仁がいらっしゃる。
各自が所属するお寺住職の袈裟の色と、自らの所属するお寺住職のそれを比べるらしい。

愚生は僧の袈裟の色が阿弥陀の役目に如何程の影響を与えるのか、同じくファーストクラスの浄土か、或いはエコノミークラスの浄土か、その座席選択に如何程の影響を与えるのかわからない。

ただ、お経が長すぎると不満を吐露する御仁らの洗練された
’比較ファッション学’の論点はその一点に集約される。

それも実に正直でよろしい。

法然にして、親鸞にして’浄土’はあるかもしれないと残したが、僧は阿弥陀に手を引かれて向かう所、つまり実存するという。
超越的思想を持って思想家らの宣言はたしかに一世風靡し、それは13世紀の荒れ狂う階級社会の中でヒエラルキーの否定でもあった、だが21世紀の御仁にはとっても必要なものらしい。

その大真面目なヒエラルキー的思考は形を変えて、財務大臣の靴のカカトの高さとなって表れ、女高生のスカートの長短として表れるのかもしれない。

それはまた、野生動物界で争いの時、或いは繁殖期に呈する、自己顕示的行動に酷似する。
生理学的により詳述すると、それは血漿中テストステロン値、エストロジェン値の上昇にして、極楽鳥の華美な変態に通ずるとしても、人間って、とても愉快な生物だ、見る側もとっても楽しい。

ただ、麻生太郎のファッションと発情期の♂の極楽鳥の変態を同一視しては極楽鳥にたいへん失礼である。念のため。

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逆に、あちこちで訴訟されている統一教会の故文何某とvisaカード使用禁止になったバチカンのヴェネディクト16世も素人目には同じ見栄えの豪勢なファッションとお見受けする。

このように書くと同一視するな、とキリスト総本山は烈火の如く怒るだろうが所詮、両教共々、人間の持つ根源的な、俗物的なモノにたどり着くのは昨今のニュースを聞く前に、既に衆人の知るところであり、仏教界にも同臭が漂う。

後二者はヒエラルキーのてっぺんに座し、人間の持つ根源的な欲を’泡沫’とほざく。

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2013年2月 4日 (月)

森町の鷲ノ木遺跡-4

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多くの自然科学者は、地球上で再生産の限界値を超えた事を口には出さねど自覚している。
そのほんの一部の北海道島でも何千年と続いた大自然を明治以降のたった百年足らずで完膚なきまでにぶっ壊し、昨今の政治状況がさらに屁理屈を捏ね回してまだダムだ、まだ新幹線だ、まだ高速道路を造るという病的カルマの連鎖がある。

この期に及んでまだ行為的矛盾、自己の悩みに哲学の真の動機が見つけられないのか、いまだに哲学者から明確な反論は聞こえない、また今の北海道人には、残念なことだがこの病理と生理の境界線が見えていない。

余談だが見えないふりをしている巨大な遺物がある。
それは北海道大学であり、日本国である。
北海道帝国大学の佐藤昌介、高岡熊雄、高倉新一郎等の説いた北大植民学といわれるドイツ由来の愚学はアイヌ民族を文化水準の劣った劣弱な民族と断定しただけでなく、アイヌ民族の駆逐、撲滅を内国植民主義の到達点と考えていた。
言い換えればこれら北大総長、教授らは自らの学問の存立を支える理論的基盤としてアイヌ民族の消滅を説いた。

また国家は自らにのみ都合のよい近代法でアイヌの権利を剥奪、邪魔者扱いして内国植民主義を主導した。
国家の暴走を抑止し、その地域に貢献することではじめて大学の存在意義があるとするなら、帝国の冠が外されても尚、北大はアイヌを蔑視し、実験動物以下にしか扱わないみっともない現実がある。

今のまま弥生的、アングロサクソン的な自然を打っ壊し放題の無思想的行動による更に百年後の結末を想像すれば、子孫の将来を今のまま大学、政治家に託し続けてよいのだろうか。

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愚生の稚論は結局、慧眼の士、三浦誠一の世界観に帰結する。
三浦誠一の到達点は’破滅’である。

ただ三浦誠一はギリシャの壊れかけたパルテノンのアテナ/アテナイを象徴的に引用したにしろ、カムイであれ、ゲニウス・ロキ/genius lociであれ、そして先住異民族の神であったアテナ女神であれ、かすかな光明としても行間に残している。

同じく加藤周一氏は夕陽妄語Ⅶ、「神はどこにいるのか」の中で、科学と宗教的信仰の力とは、どこで矛盾し、どこで折り合うのかと、最後に世界を変えるためには、信仰なのかもしれない・・・」と深い想いを後世の宿題としている。

また論壇とは無縁なあるアイヌの古老の論がある。
その昔、川でアキアジを引っ掛け鈎で密漁するのが当たり前の時代、それを生業としたアイヌの古老はシマフクロウも昭和30年頃まで普通にそこいらを飛んでいたのを見かけ、啼き声は一升瓶に唇を付けて息を吹きかけたような野太い低音だったと教えて頂いたがもう昔の北海道には戻らないと寂しそうに言う。

古老が言う’戻らない自然’とは即ち自然の消滅、之即ち人間の消滅と云うが、どうやらそれを否定するだけの論を現代人は失いつつある。

まさに無/nothing、仏の云う無は得られるかも、或いは感じるかもしれない無であろうが、アイヌの云う無は、無すら無い。
無の問いすら無いとはいったい何か。

ここまで長々と駄文を連ねてしまったが、実践の伴わない知恵、哲学をひたすら活字に押し込め続けた我々縄文人の子孫は北海道森町の’鷲ノ木遺跡’と呼ばれるストーンサークルの置かれた、悲惨極まるを現況を前にして、せめて現代文明を疑い、あるべき現代文明の最低限のマナーくらいは感応できるだろう。

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