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2013年3月 9日 (土)

顔のない円空仏

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北海道で円空仏と称される木仏は数少ないと言われている、その中で日本海沿いの上ノ国町、天の川河口辺りで拝見させて頂いた、観音さんには驚いた。

柔和であったろうそのお顔、表情は万人に等しく分け与えられたのか、すっかり擦り減っている、今でも近在の人達は触るという。

いずれ、小さな木片となって消滅するなどと唯物的な見方も否定はしない、それもまた円空さんの願いでもあったのだろう。

破材に彫られた円空仏は視覚だけではなく、触覚にも訴えるのは当然のこと、ときに両足で保持し、抱えるようにして彫られ、御仏、諸観音と化したオンコ、ヒガツラのもつ杢は美しく、触れたくなるのもまた、日本人の仏心というものだろう。

逆に宝物などとのたまって人目を避け、仕舞い込んでいる寺社もあるやに聞くが、それは佛心と自心の会話の拒否であり、円空さんの御心に耳しない愚行に過ぎない。

『歓喜する円空』を再々読、その都度新しい発見がある、それは自身の無知に対する警笛であり、自身の深読み出来なかった生き様に対する問いとも読める。

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木っ端を彫る無学な乞食坊主とする従来の評価を日本史における空海に次ぐ人物と評した梅原猛の円空論は面白い、とにかく引き込まれる。
特に異論者と対峙した認識論は読み所の一つでもあるが、読み方によっては円空さんとすっかりsynchronizeしてしまった梅原猛さんの熱き想いはよく伝わってくる。
鋭い考察の中にはときに禁じ手であろう主体と客体が入り混じっている、よって当然ながら危うさも伴う。

又、それもいいではないか、知るとは、そして解るとは、きっとこういうことを指すのだろう。

それにしても円空さんのことを想うと心が弾む、なぜなのだろう。
加えて読後感の良さ、これもまた悪書にはないことである。

余談だが、諸人種と交わればひとつわかることがある。
日本人を名乗る人種は新現象、新知見を浴びせられると、その思考回路はまず’否定’から開始されるようだ。

ご多分にもれず、乞食だの、木喰だのと知性、教養を頭から否定する空疎な円空論が渦巻く世にあって、僧ではない大哲学者であろう梅原猛の円空論はユダヤ系白人であった
gershwinのrhapsody in blueに通ずるものを感じる。

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