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2013年6月17日 (月)

がまかつ釣り大会のあやまち

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’獲り過ぎるな、喰うだけでいい’とアイヌの古老は言う。
なんと耳触りの良いフレーズなのか、永久不変的な智慧とはきっとこんなことを云うのだろう。
カナダではオヒョウ以外の小さなカレイは左右目で、しかも一緒に釣れる事もあり、毎回驚かされるが、北米の人達も北海道人同様に、昔からカレイ釣りを楽しんでいる。
しかし喰うだけの釣りであって、けっしてoverfishingはしない、と友人等は主張する。
あの大ざっぱなアングロサクソンにしては優れた感性である。
もしもバケツに入りきらないほど釣ったなら、ひんしゅくを買うこと請け合いである。
つまるところ、大漁/overfishingは’モラル、知性の欠如’も含意し、両者の哲学は洋の東西でありながらも見事に一致する。
大漁とは、若しも許されるとするなら、職業漁師だけだろう。

ところが日本では決められた時間内で、如何に沢山のお魚さんを釣りあげるか、その総重量を競う大手釣り具屋さん主催の釣り大会が例年、開催されるらしい。
それら釣り具メーカーのうたい文句はスポーツフィッシングの振興とある。
一見ごもっともだが、愚生には新大陸へ入植したアングロサクソンによる新式ライフル銃の試し打ちをスポーツハンティングと都合よくのたまって、州によっては野生牛のバイソンを殺りくし尽くした悪例と同じく見える。

ここで釣り具メーカーのイデオロギー批判は本主旨でない、よってこれ以上立ち入らない。

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人は地上の自然界には目を向けるが海の底はあくまで想像の域でしかない。
だが海底も生きとし生けるものの楽園でもあり、dna配列を変化させ、したたかに生き抜く生物の絶妙なバランスシステムが機能しているはずだ。
そこへ最新式の釣り具に美味しそうな餌を付けて糸を垂らしたならお魚さんが喰い付くのは当たり前のこと、だがその大会は沢山のお魚さんを際限なく釣りあげること、ただそれだけを目的としている。
聞くところ、北海道では百名前後の釣り師を乗せた多くの釣り船がカレイの狭い生息域に集中し、時に舳先を擦りそうになりながら、凄まじい量のカレイを釣りまくるらしい、これがはたして21世紀の今でも許されることなのだろうか、その限られた生態系にいかほどのストレスを与えているのだろうか。
若しかして再生産力は無限大とでも考えているのだろうか、だとしたら例えて申し訳ないが、日本海沿岸のニシン漁で栄えた、寂寥感漂う後継者のいない老漁師の仕業に似る。

加えてお魚さんに対する尊厳を決定的に欠いているのも事実、例えば雑魚、害魚などと人間が勝手が決めつけたカジカなどが針掛かりした時など哀れである。
ほとんどのカジカは船板に叩きつけられ、更には踏んづけられる宿命だ。

主催者は無制限に釣れと悲劇を演出する、そして紳士、淑女は釣り竿を持ったとたんに明日へのエチケットを忘れ、無思考なる狂人に変身し、やがて白痴化する。

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釣りに魚心と人心の静かな対話を求めたwalton卿の書に’静謐’という単語こそないにしても、それで満ちあふれていることは万人の認めるところだが、釣りを競技としてしまう、したたかなコマーシャリズムはそれを根底から否定した挙句に、空疎な結果至上主義へと誘引する。
同じく、釣りに美学を求めた開高 健、そしてwalton卿の残した人生哲学のひとつの問いであろう’静かなることを学ぶ/study to be quiet’ことからも徹底的に乖離する昨今の釣り風景のようである。

釣り人の人生観、価値観をとやかく言う筋合いのものではない、しかしお魚さんを見境もなく沢山釣りあげるということ、そして生物を質量に換算することと同じく、より大きい妊娠中のバイソンを求めて、ライフル銃を群れの中で乱射することの人間的意味に’解’を求めることは愚かなことなのだろうか。

地球環境が不可逆的に大きく変化している今、いずれこの愚かなルールの釣り大会は世界中の笑いものに成り下がるにしても、開高 健なら、なんとのたまうか。

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