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2013年11月25日 (月)

剥ぎ取ったペルソナ

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昭和45年11月25日は三島 由紀夫の殉死の日、つまり今日である。
あれは’一体何なもんだ’の愚生の問いは今に残る。
思い起こせば加藤周一をはじめ、論陣を張った多くの論客等はそれぞれの切り口を細述してはいるが到達点に達したとは到底、誰も想っていまい。

その中の一人である作家、猪瀬直樹は自著「ペルソナ/三島 由紀夫伝」でノンフィクション的精緻な考察を展開し、その異常性を鋭く突く視点は司馬遼太郎に似る。
猪瀬直樹は又自著、「日本の信義」の梅原猛との対談に於いて、更にはマイケル・サンデル教授との論議に於いても同席していた竹中平蔵をはるかに超える理知的な論点、思考回路を披露したが、作家として文学という芸術に哲学、美学を求めていたのは明らかだろうし、そこに惹かれたのは決して愚生だけではあるまい。

先兵、或いは組織のトップは時に清濁併せ呑む事を要求し、逆に要求される事もある。
それを人は度量といい、器の大きさに譬える古き日本的習慣が片方にあり、更には見ざる、言わざる、聞かざるを家康は家臣にも説き、アングロサクソンは3匹のwise monkeyの知恵に目を見張る。

しかし21世紀の、しかも政界では勿論、御法度である。
猪瀬直樹が三島 由紀夫より見事に剥ぎ取ったペルソナ/仮面を自らの顔に付けるのも、ある意味で歴史のアイロニーなのか。

繰り返しになるが文学も芸術と称されるのなら、山本健吉は以下のように書いている。
芸術作品の美しさの背後に、それをたまたま創り出した人の像を思い浮かべ、その人品の美しさと作品の美しさとの接点に「美」を求めようとする。
美意識に倫理的性格がくわわる。逆にいえば、日本人の倫理とは、美意識にほかならない。云々・・・(9日本の美より引用)。

佐高 信には「自分を売る男」と揶揄されるもスマートな猪瀬直樹である、全人格すらも否定される恐ろしさを知りつつも尚、それを超えさせたものとはいったい何か。

人品卑しい金の裏に、或いは忌避できない人間的深い問いが存在するのか。

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