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2014年1月31日 (金)

シマフクロウが舞う

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アイヌは文字を持たない、しかしそれをハンディとしない明晰な頭脳、記憶力を有することに松浦武四郎は驚き、称賛している。 
知里真志保の姉の幸恵が書いた「神謡集」がある。
沢山の神/カムイが登場するその様は、日本に仏教という新興宗教が蔓延するはるか前、有史以前の、時系列で最も長く自然の中で慎ましく生きた人々の、理性と礼節の哲学を想像させてくれる。

知理幸恵は、この世にあるものは人間だけではなく熊、狐、樹木も茶碗も全部魂がある、魂があるのだから生きていられるし役にも立つと、アイヌは’存在論’という大きな命題に魂を宿らせて考えているのだと主張する、そしてすべてのものが神であり、神性が宿っていると神々に謡わせる。

人間が死ぬと必ず神になる、悪人でも然り、もちろん熊も鳥も。
そして又、生まれ変わってこの世に又やってくる、というアイヌの思想を代弁している。
この思想は幸恵に限らない、お聞きしたアイヌの古老/エカシ達が共通して当たり前のようにして述べることでもある。

同じくアイヌの古老/エカシは「あの世には天国も地獄もない、従って亡くなった方をあの世に行けるように残された人たちがしなければならないのです。ですからこの世で泥棒しても、人殺しをしても死んだ時には皆がお悔やみに来た時には悪事をすべて晒して悪い奴だけれども、神様に受け取ってください、もしも神様が受け取らないと何をしでかすか分からないので、どうかお願いしますと言って引導を渡します」と言う。
つまるところ、アイヌのあの世に天国、地獄の区別はなく、皆同じところに行けるという思想は、なぜか親鸞の悪人正機説「・・・いはんや悪人をや」に通ずるようにも、そしてまたプロトタイプとも思える。

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最澄が比叡山という鬱蒼とした木立の中で凄まじい修行を繰り返す中で、神様と仲良くし、いつの間にか、いにしえの伝統的な神様に教わったのだろう。
人が死ねば必ず神様になるという現在のアイヌに引き継がれている伝統的な考え方を最澄は、人が死ねば必ず仏になるとしたと、梅原猛は言う。

繰り返しになるが知理幸恵の「神謡集」は、この世にあるもの、つまり熊、狐、樹木も茶碗も全部魂がある、魂があるのだから生きていられるし役にも立つというアイヌ民族に引き継がれた、いにしえの原理思想はやがて、山河草木悉皆成仏、輪廻、再生という単語に置き換えられ、少しだけペンキが塗られた、ということになる。

隋の智顗/ちぎの教えはもちろんだが、天台仏教は神性を仏性に変換して8世紀の壮大な哲学は始まり、13世紀のヒーローてあろう道元禅師、法然、親鸞は比叡山をくぐりその哲学は拡大していったが、やがてあるものは公家を利用し、あるものは大名に取り入って哲学性は失せ、珍事として今に至る。

シマフクロウが舞う、やさしい「アイヌ神謡集」を再読するとそんな歴史の巻き戻しが起る。

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神謡集と一緒に神話がある、現在にもある、例えば「安全神話」。
それは原子力ムラの中だけではなく、殆ど全ての日本人がいつの間にか安全神話を信じ込こまされた。
溢れるほどの不都合な真実を目一杯隠し、絶対起きないという腐れきった日本人の思考回路は「最悪のシナリオ」を平気で消し去ってしまう病理的な心的傾向を炙り出した。
にもかかわらず一握りの原子力ムラの為のドグマがいまだ日本中を席巻している。

そこに組織利害が加わる、誰かに恥をかかせるなという配慮、独立した視点を煙たく思い、組織は誰が執っても回るような官僚文化、無責任、つまり天皇制。

加藤周一の夕陽妄語Ⅶ、「神はどこにいるのか」で、科学と信仰の矛盾、折り合いを問うているように、愚生はこのままではいよいよ日本が駄目になると考える。

普遍的なものとは、本質的なものとは何か、つらつらと思う一年となりそうだ。

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