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2014年4月30日 (水)

差別なのだろうか

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サッカー試合で’JAPANESE ONLY’の標語が物議をかもしている。
これはあくまでも愚生の想像にすぎないが、サッカーが大好きの無頓着な数人がゴールネット裏の観戦に、ある種の同年代的、更には合目的な統一を求めていただけの事ではないのか、だとしたら可愛いことでもある。
そこに拡大解釈される恐ろしさが潜む事まで思い至らず、数少ないボキャブラリーの中から単に’JAPANESE ONLY’のフレーズを選択してしまったのだろう。

しかしマスコミはその幟をあたかもミクロな塊のベクトルが民族主義的匂いを漂わせていると大々的に報じ、無思考に連動した社会は、’偏狭なるナショナリズム’というフレーズまで引っ張りだし、彼らを強引に右の端に引っ張りこみ、位置付けしようとしているが、果たして彼らに排外主義的思想はあったのか。

これは今の日本にまん延する安っぽいイデオロギーに過敏に反応する、ある種の痛々しいアレルギー反応なのか、愚生なりに意図するところを考えると彼らの主張する’JAPANESE ONLY’に他意はなく、地域応援団のシンパシー、波動を共にすれば女性でも、お年寄りでも、もっと付け加えるのなら外国人でも構わないのであって、いうなれば地域の楽しいお祭り事の演出の一つに過ぎないのではないか。
よって表現を変えれば’浦和サッカー好き応援団集まれー’的なフレーズと同義であり、彼らの頭に差別/racismの’意’を含有しているとは到底思えない。

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世界中のあちこちにある路地裏の安宿、女郎屋、安酒場を薄汚い服で徘徊すればすぐに叩き込まれることでもあるが、深読みすれば、研究室に籠もりきっりで差別された経験のない輩に限って、サベツ、サベツと簡単にのたまう悪癖があるようだが、差別する側とされる側の、両者の深淵に至る熟慮、考察がなされないまま、バランスを欠いた視点で安売りしているように思われる。
例えば特権階級にいた哲学者のシモーヌ・ヴェイユは当時のフランスの過酷というか、どん底の、劣悪な労働条件の工場生活に飛び込み、その体験を記しているが、日本の’サベツ’を連呼する社会学者、マスコミと比べても文字の力には雲泥の差がある。

この程度のことで何故、こんなにも熱くならなければならないのか?
日本の、表向きの平等を謳い文句にする社会においては思考、外貌、喰い物etcが少しだけ異なっただけで、多勢の側の差別もしくは区別感情が作動することは小学生から叩き込まれる、所謂いにしえからの村社会存続のための手法、この偏執的な社会こそ社会学研究者、メディアが指摘しなければならないことではないか。

今の日本のある種の集団ヒステリック的な現象下で、一見きれいごとが闊歩する現実は、日当たりの良い場所でよそ者に対するリスペクトをうかがわせる柔和な表情は所詮ペルソナに過ぎず、逆に日当たりの悪い場所では簡単に’嘲笑’に豹変する現象をこれら社会学研究者等の筆致は助長、潜在化させ、あらぬ差別を明文化させているようにも思われるが如何なものか。

昔から日本人たる者は耳触りの良いプロパガンダで、おおよそプロパガンダの発信元はある種の意図を持つ学者、政治家によるが、それを無思考、無批判で甘受し、簡単に想像しうる最悪の結果さえ無視して集団行動をとる国民性は、なにより歴史の証明するところだ。

ならばレミングの集団行動は日本人の真似か、ネズミにまでその習性を真似されるとは、ちと情ない。

まず疑おうではないか、政治家を、官僚を、学者らを。

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