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2014年6月30日 (月)

夢路の先の

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維新とは刷新であり、やり直しの意味と勝手に判断していた。
ところが日本維新の会のHPを覗くと英訳にJapan restoration partyとある。
その’restoration’の意味するところは、復元、復古の意であり、過去の政治体制に戻ることを含意する。
他にrenewal/rebornといった簡単な英単語があるにもかかわらず、21世紀において既に消滅した単語を恥ずかしげもなく使っていること自体、党首である石原慎太郎の誤訳すらいとわない強烈な意図が隠されているのは想像に難くない。

その日本維新の会が騒がしい。
石原慎太郎が脚本する独我的政治劇が分裂、当然であろうが橋下徹にくみする気もない。
石原慎太郎の若かりし頃、たまには切れ味のいい文章を見たが今に至り、自足歩行が困難なご老体に加えて政治感覚が大きく歪みつつある。

ポピュリズムを操り、多々の自制心なき言葉、無定見な行動を棚上げして、遂には’国を守る覚悟はあるのか’と主張する。
ようは国家だの、日本人の心を引っ張りだして覚悟という単語を汎用しているようだが、本来の覚悟とは、達磨の前で慧可が断臂するようなことを差すのであり、そこには安っぽい文学者、哲学者らが馴れ合って醸す曖昧な空気などある筈もなく、慎太郎の軽口で、かつ自己顕示的にのたまうそれとはあまりにも乖離する。

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今にも壊れそうなはしごの右端で、誰も耳を貸さなくなった強がり言葉の御遊びに哀れな老醜が漂うが、もしも慎太郎自身が三島 由紀夫でも真似て、憂国の士を自認しているとすれば日本にとって迷惑千万、茶番であり、それは自らの三文小説の中だけでいい。
そもそも石原慎太郎のいう亡国論、そして主張する夢路の先にはどんな国家像が描かれているのか。

日本人論の一つに引き際、散り際の美学がある。
名だたる文豪のテーマの一つとなっているが、石原慎太郎の書にはどうやら欠落しているらしい。

小林秀雄は「ただ現に生きているという理由で、その人の言葉を、その人の顔を、現代人は信用し過ぎている。信用し過ぎたお蔭で、人間というどんな夢路を辿っているのか」、と強烈な一言を残している。
<モオツァルト・無常ということ、p151より引用/新潮社>。

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2014年6月13日 (金)

思想は知識ではない

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団塊の世代の一批判に出会った、以下に引用する。

体験にもとづかない思想なんてありえないでしょう。
現実と関係しなければ意味をなさない。その意味で、主体と不可分なんですよ。思想をもつということは、それを「信ずる」かどうか、という部分もありますからね。戦時中、キリスト教であれ、マルクス主義者であれ、文学であれ、何かの思想を貫いて譲らず、反戦思想をもちつづけられた人は、自分のもつ思想が正しいと信じつづけられた人々です。
一方、戦争支持に回った人たちの圧倒的大多数は、思想は信条にまで高められず、容易に捨て去ることができた。
つまり、思想はたんなる知識で、主体を形成するものではなかった。

そのよい例が団塊の世代にとって懐かしい新宿騒乱事件などの学生運動で収監され、翌日には母親がおにぎりを持ってくる、それを食べた瞬間に「あ、これは良くないことをした」と心変わりしてしまう。
それが理論信仰の弱点で、実感をともなって身についていないから、理論からおにぎりのほうに跳んじゃうんだよね。母親と自分の関係には実感がありますから。理論と実感の橋渡しがされていない。それが転向の構造だと思います。

また小林秀雄のような実感信仰の場合、それでは戦争という現象を捉えることができない。実感から出発して理論に到達すればいいのですが、実感一本だと、結局「生き甲斐」主義ですから、戦争でも、オリンピックでも同じになっちゃう。砲丸投げは、精神と肉体が一体化したいちばん人間の美しい瞬間であるという。
これは槍投げでも、走り高跳びでも、何でも同じでしょう。
ところが、これでは戦争は説明できない。戦場で突撃する兵士の精神と肉体が一体化していて美しいということになれば、それは戦争賛美になる。
しかし、「美しい」では戦争はすみませんからね。だから、小林秀雄さんは戦争を批判する視点、論理をもっていないということになる。小林秀雄自身は理論と実感の乖離を批判しているのですが、主としてそれは理論批判で、実感の批判には向っていない。
しかし、実感には限界があるんです。
肉体と精神の関係では戦争は捉えられないでしょう、それは日本の知識人のたいへん大きな問題だと思います。
それは戦後も続いていますね。68年の全共闘運動でも、ヒュッと態度が変わりますね。それも実感信仰でしょう。「生き甲斐主義」で反体制から体制支持に変わる。理論と実感が結びついていない。
転向して、会社の重役に納まって生き甲斐を感じる。   以上 

<ひとりでいいんです/2011 加藤周一の遺したことば/p99-122/講談社、より部分引用>

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簡単な団塊世代批判の一側面であり、小林秀雄批判の一側面だ。
今風に要約すると、山折哲雄が「まさしく地獄」と形容した東日本大震災を経験した日本人が、あろうことか実感信仰を拒否してしまい、理論信仰を無視してとりあえず、’今、ここ’だけの「生き甲斐主義」に耽溺する原発推進論者批判とも読める。

市場主義による一時的なマネー力学のもとで、弛緩した無思考な駄馬の前に差し出された毒入りのニンジンを、だらだらと、だらしなく喰らう姿はあまりにもみっともない、加えて次世代の国家像を決定的に欠いた狡猾な政治手法の前に、日本人の盲目的な民度の低さは痴的ですらある。

遠くで’フクシマ’を見て、即座に国民総意で、当たり前のように脱原発にふみきったゲルマン民族に比べ、日本民族の恐ろしいほどの守備的思考はいったい何処に由来するのか。

これらの問いを前にして、当時の流行りの半纏をまとって、ぶっ壊し放題で再構築しなかった悪業の数々を、いまだに含み笑いする団塊世代は解を有するのか、自戒を込めて。

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