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2015年1月 6日 (火)

イデオローグ/松陰の場合

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明治維新を青壮年として迎えたのは1830年前後に生まれた日本人、この時代の下級武士層出身のエリート達は政治化した。
外的には鎖国か開国か、内的には尊王か佐幕かのイデオロギー戦争、今風に言うならグローバリズムの賛否、保守かリベラルかといったところだろうが、戦法はテロリズム。

これら維新の凄まじいエネルギーを持ったエリート達は主に、長州、薩摩、土佐出身であった。中でも長州出身の活動家の大多数は吉田松陰という詩人であり、イデオローグ=テロリストの影響下にあった。

松陰の主張の主だったものは対米強硬策であり、もしも要人が反対すれば’殺せ’と徹底していた。
また『松陰詩稿』には頻繁に墨土火船、四夷、国恥、忠義、勤王、報国などの憂国の単語が並ぶ。

余談だが、似通った単語を後の三島 由紀夫にして、石原慎太郎にして、国粋主義者にして用いているが、中には単にポピュリズムに安っぽく便乗するがために、拝借しているふしもうかがえる。
ならば憂うべきところの主体は、国家なのか、国体なのか。もしも国体とするなら、その本質をどのように考えていたのか興味のあるところだ。

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同じく、「墨夷丸に御拒絶」と書き残している。
これは日米和親条約の破棄の意、よってアメリカ艦隊と一戦まみえることになるが、江戸末期に海軍力など皆無の日本においてはあまりにも無責任過ぎる。
もしも松陰の言葉通りにアメリカと戦っていたなら、想像されうる負け戦の悲惨な結果はあらぬ方向へ向かっただろう。

その書にはまた’狂愚を愛す’とある。’狂’とは接尾語の-mania、ようはmegalo-mania,nympho-maniaのように用いられる’狂’は、裏返すと力関係の冷静な判断、費用対効果の戦略、政治的判断を持ち合わせていない、ということになる。

松陰は尊王と開国にどう折り合をつけたのか?

また尊王は倒幕なのか?

松陰の思想に独創的な点は、開国と攘夷という一点だけ、しかし松陰のいう’攘夷’は語意をひん曲げ、拡大解釈している。
それはまるでコーヒーに渋い日本茶を少し混ぜたようなもの、だが最大の悩み所であり、それこそが非現実的なことであったに違いない。

後世の識者の中には吉田松陰の思想に独創性はなく、計画には現実性がなかったという人もいる。確かにそうなのかもしれない。しかし激流にもまれ、やがて没する身を省みず、国を案じた詩人をビール片手に論ずることは気楽なことであろう。

ただ一点付け加えるが、世論なるものは沢庵の切り口同様で、例えば西郷隆盛が、そして近藤勇がそうであったように、切り方いかんで解釈は変わりる。
錆び刀では尚のことでテロリストが一瞬のうちにヒーローに変わりもするが、吉田松陰のdnaを安倍晋三が引き継いだかの如き世論は茶番であり、笑止である。

幕藩体制の上にある。’尊王’という権威付けされたイデオロギーを見事に引っ張り出し、「狂愚誠に愛す可し」と、貧乏サムライどもの内に、溜まりに溜めた抑圧されたイデオロギーを爆発させる力こそが、松陰そのものだったのだろう。

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だが古来、日本人は、イデオロギーの名のもとに死を冒すことがあるが、イデオロギーのために死ぬことはめったにないと識者はいう。
たしかに三度の渡海をしくじった松陰、逆に三度の渡航を果たした諭吉と違いはあるものの、『丁丑公論』に、「幕府に死して天朝に蘇生したる者、或いは幕府の晩に蚕眠を学で眠り、天朝の朝に蝶化して化かしたる者ならん」と記し、さらに「世上に風波あれば其大勢に従ふの趣は毫も異動あるべからず」、と諭吉の鋭い鉾先は一夜にしてイデオロギーを転向した旧幕府首脳、佐幕派へと向かう。

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