« ノーベル賞のムダ話 | トップページ | 一遍のダンディズム »

2016年1月11日 (月)

一遍のあざやかさ

Imgp3650
愚生は悟りのなんたるか、信仰のなんたるかさえ理解しえないが、思考の技術には少なからず興味はある。
たとえば法然は他力を、そして道元禅師は自力を選択、主張し、僧院の規律からすると、それぞれ易行、難行ともいわれ、文字通り、互いに逆方向へとむかう。
法然は弥陀の確信的存在を前提に論を勧めたが、道元禅師によって、「只、舌を動かし念仏を唱えるのは 春の田の カエルの 昼夜鳴くが 如」と痛烈に罵倒される。

芸術、職人の世界と異なり、思想界において頂上を極めた者は、異なる流儀、異なる思考の技術に対する寛容は到底あり得ない事を示すにしても、愚生にはせいぜい、ラーメン屋のオヤジとソバ屋のオヤジのケンカ程度のものでしかない。
ただ、それぞれが最後まで内包したであろう、消去しきれない血族のidentity、記憶のbiasと戦い続けたのは間違いないだろう。
2imgp2567
’一遍’と呼ばれた坊主がいた。
自力だの、他力だの、諸宗の悟りさえも捨てろ、棄てろと主張した。
智慧も、愚痴も、貴賤高下も、地獄を恐れる心も、極楽を願う心さえも捨てろと、なんとも凄いことを説いた。
ただ一心に念仏を称えて各地を遊行し、’決定 往生’と書いた札を賦る等々、遊行の捨て聖だの、遊行上人などと愛着をもって称され、特に貧者から慕われた、魅力的な人物だったらしい。

この一遍に宿る’棄ててこそ’の論理に、現代日本人はさほど違和感を覚えることなく、それは日本人に特有かもしれない、もっと言うならアングロサクソンの感性では到底得られないであろう、ある種の’あざやかさ’を含んでいるのだろう。

この’あざやかさ’は、九鬼周造の名著、いきの構造(岩波)に、「畢竟、わが民族に独自な生き方の一つではないか」、の一行に通じるかもしれない。
もしかして親鸞の自然法爾に近く、道元禅師の、身心脱落して万法に証せらるることに類することなのかもしれない。

更には仏教渡来以前の、いにしえ人の云う、’おのずから然りであり、みずから然り’に通じ合うのかもしれない。

そんな一遍を教えてくれた長楽寺、遊行庵の坂田さんに感謝したい。

|

« ノーベル賞のムダ話 | トップページ | 一遍のダンディズム »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47604/63321142

この記事へのトラックバック一覧です: 一遍のあざやかさ:

« ノーベル賞のムダ話 | トップページ | 一遍のダンディズム »