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2016年2月27日 (土)

一遍の見えず見もせず

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長楽寺山麓の眼下には祇園が見える。
そこに見え隠れするド派手な色はフェロモンを放ち、花に柳に三味の音に引き寄せられ、あらゆるhierarchyの民が足繁く通った、それがあたかも義務であるかのように。
勿論、坊主も是非の愚問は棄て、カツラ着用で足しげく通う。
それでも是れ即ち空っぽだの、やれ無だの、なんたらと好き勝手にのたまおうが、愚生の知った事ではない。

13世紀の思想家たちのfundamentalな思考は、downgradeさせられ、経年劣化を繰り返し、得度、剃髪した聖職者を自認する輩の多くは、聖と俗の境にある是非の問いを消去して今に至る。

たとえば坊主は思考の技術として、色即是空と宣う。
6世紀なら色はない、色は空っぽ、無色etcと諳んじたところで何某の木戸銭は得られたかもしれないが21世紀に於いて、網膜の細胞に映る3Dカラーを指して同じく諳んじたところで、はたしてどんな色を指すのか。色はいろいろであるなら、時空に固定した色か、黒も白も独一にして単純なのか、さては特定の色を指すのか、全ての色を指すのか、此れらは即ち、’無色’なのか、色は現成してそれぞれが調和しているとでも解釈すべきなのか。
このような珍問、奇問に一遍は、答える。

「いまははや 見えず見もせず 色はいろ いろなるいろぞ 色はいろなり」と。

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だが愚生には、これがまったく理解できない。
能力の限界を知らされるが、たとえば最終章の切り口を朝日に消えるなごり雪に喩えて、スマートに、しかも深く諳んじた芭蕉がいて、もう片方にはそれさえも捨てる、或いは捨ってちまうことができる、凄まじい一遍がいてこそ、思考の異味を教えられる。

繰り返すが一遍のいう、「いろなるいろぞ 色はいろなり」は、棄ててこそ見えないものが見え、聞こえないものが聞こえると、答案用紙に書き込めば百点満点の優等生にしても、俗悪な愚生にそんな解釈は所詮、出来っこない。

人生の優等生なんて、さらに興味はないにしても、’一遍さんのいう色’、苦悶したであろう’いろなり’となぞる行間に沈殿しているモノ、もしかしてそれこそが宝モノかもしれない。

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