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2016年3月 6日 (日)

海の上の露天風呂

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揺れに目を覚まし、ベット前のテレビでgpsを見ると能登半島沖にさしかかったらしい。
朝ぼらけの中、南方には数日前まで滞在した輪島市街とおぼしき街灯が見えた。
日本海を25ノットで北航する船足は、夕刻には松前の島々辺りから徐々に東方向へと向きを変える。
余談だが同じ船旅でも片手にロッド、もう片方には1$のbudweiser小瓶を持って何度となく乗船したnanaimo~ヴァンクーバー島間を航行するカナダ自慢の大型フェリーは、水面に漂う太い流木と舳先が時々衝突しる。その時に発する大きな衝撃音、それもすきっ腹にドーンと響くような重低音と振動に、肝試しとばかりに何度となく襲われ、はじめの頃は驚きもしたが、日本近海ではそれがないことが逆に不思議な感じもする。

やがて時化の津軽海峡に入る。
松前を左舷側に、津軽半島、竜飛岬を右舷に眺めながら、6階客室横の露天風呂に一人浸かり、古本を覗いたり、漁火をぼんやりと眺める。
露天風呂好きの愚生には、まさに至福の一時でもある。
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chapter、「自然について」、である。
ソクラテス以前の古代ギリシャのなんたらとか言った人達は、自然/フュシスを万物/タ・パンタの真のあり方を指し、人間から神々も含むすべてを自然/フュシスと呼び、その真のあり方を考えた。万物/タ・パンタはおのずから生成し消滅するものと見ていたらしい。
古事記にも高皇産霊神/タカミ-ムスヒ-ノカミと呼ばれる神様の中にある、’ムスヒ’はギリシャ語の自然/フュシスと同義語で、ムスは苔ムスの’ムス’つまりは植物的生成を表す動詞であるという。こんな農耕民族の洗練されたanimisticな思考が古代ギリシャと古代の日本に共通するという。
それが芭蕉の’おいのこぶみ’にも見られる。
続いてプラトンのイデアといった超自然的原理を、そこからmetaphysicalな思考と物質的/materialな自然観とは連動してしている。
当時としては異様であったイディア論は、1200年かけて西洋文化圏の伝統となる。例えばプラトン哲学を下敷きにしたキリスト教神学では、神を超自然的原理として、自然をその被造物とみなした。
19世紀後半に至りニーチェが登場し、その物質的自然観、西洋哲学の反省をはじめ、古代ギリシャ初期のあの古い自観を復権することでその乗り越えをはかるのだがその頃、懸命に西洋文化の摂取をはじめた日本人の眼には映らなかった。
そのために日本人は西洋から輸入した物質的自然観と、自分の内にかすかに残響している日本的自然観とに引き裂かれ、せっかくこんなに豊かな自然に恵まれながら、その自然と歪んだ関わり方をしているようだ。(p147-160、木田 元著、新人生論/集英社新書より引用)
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読み終える頃には客船の揺れも次第に大きくなり、湯船は時に溢れ、本を持つ手と顔は冷たくても心地良いが、やがて横殴りの強風に雪が混じりるようになる。
湯煙に潮風、そして吹雪と風情のある贅沢な組み合わせを堪能しながら、下北半島の大間沖に達する頃になると、陽はとっぷりと暮れ、右舷側近くには一列に並んだマグロ船団の漁火だろうか、鮮やかな輝きを放ち、その奥には大間漁港灯台の点滅を見ながら、船は太平洋に出る。

さて要不要の議論は尽くされたのか、海峡の海底までトンネルをぶち抜いて新幹線が開通すると、恰もマスコミが国交省のお先棒を担ぐが如き喧伝と、無批判な北海道民の浮かれたバカ騒ぎに、まさにプラトン流哲学者らの宣った如く、世は増々利便性を際限なく求める。

たわけどもは、あるにこしたことはないとすっ呆け、料金が高いだの、時間がかかり過ぎだのと、さも知ったりと一応御託言を並べ、識者を自称するアカデミアの住民らはこれを文明の発展とうそぶく。

さては日本の至宝であろう、’ムスヒ’の思考を完全消去するつもりか、哀れな日本人の焦燥よ。

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