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2016年7月17日 (日)

九谷を思わせる一皿

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ある骨董屋で買い求めた他愛もない、九谷を思わせる一皿がある。
上手ものとは云えないが、決して下手ものでもない。
端は少し欠け、’入’もある。
だが長年使い込まれた証なのか、えも言われぬ指に馴染んだその触感は、前所有者の美学を愚生に伝えてくれる。
昨今の芸術or実用ものか、美or醜か、果てはお値段はと、価値をお金で表すのが21世紀のマナーだとするなら、この一皿はいつの世にも寄生している如何わしさと、無症状なる病理的世情をきっと憂いているに違いない。

柳宗悦を引っ張り出すまでもないが、その区分を捨てろと主張する。
そう、捨てろ、捨てろと一遍さんが謂ったように、宗悦もまた善悪、好悪、美醜etc人間の深部に宿る意思に挑み、文化とはこうした区分の集合であり、そこに煩悩は生じるという。
ならば文化とは、煩悩と一体らしいなどと言ったなら小賢しいが、そこは修行を積み重ねてこそ得られるであろう、強烈な無分別、不二一元の世界であり、愚生如きがふらりと立ち入るには次元が違い過ぎる。
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この一皿を焼いた名もなき陶工は己の技を自慢しない、さらには己を空っぽにして作り上げる何千何万回もの手の動きはあたかも六文字を声明し、無の世界に挑もうとする修行僧の念仏に似て、いずれは無意識のうちに美と仏の一体化がなされるのか、そんなわくわく感と緊張感もはらんでいるやにも想わせる。

古来、多々いる贋作者は嘘に金を見い出して精巧なコピーに汗を流したらしいが、逆に煩悩の世界から脱出する事が出来て、秀でた匠が生まれたというから人間って面白い。
そんな妙好人に会ってみたい。

余談が過ぎた、宗悦の思想には木喰さんだけではなく、一遍さんも宿っていることがうれしい。

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