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2016年7月24日 (日)

不寛容論

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日蓮は遂にたどり着いた法華経をして他の信仰を断じて許さず、道元禅師は浄土信仰を嘲笑った。
それはもしかして上田閑照のいうところの既成宗教の自らの信じるものの相対化ができないためなのか、それとも相対化など不必要だったのか理解できないが、不寛容とも思える問いを後世に残した。
また18世紀、冤罪であるカトリックへの改宗を怒ったプロテスタントの仕業をカラス事件として、宗教のもつ慈愛、野蛮性に果敢に挑んだヴォルテール/Voltaireは’寛容論’として冊子にまとめている。(斎藤悦則訳、光文社出版)

狂信に対する理性の力を説いた’寛容論’、その原義である、’tolerance’の単語には、’我慢できうる許容範囲’の意味も暗黙のうちに含まれている。
テロ以降、地元フランスでもその本は盛んに読まているらしいが、’私はシャルリーではない’に対して’私はシャルリー’を謳う拮抗したイデオロギーは是即ち、tolerance vs in toleranceであり、日本のマスコミはなぜか、こぞって前者を取り上げているようだが、ヴォルテールの美文にあるような、純粋に析出された寛容にはおのずから限界もみえる。

ヴォルテールの説くtoleranceの中身、ようは理性の閾値は、当然ながら彼自身も使い分けに苦心しているようにも見えた。

例えばなんの断りもなく、土足でよその国に入り込み、やれ無税にしろだの、やれ選挙権をよこせだのと、大声で主張する異端が、恣意的にすがり、時に策略的に担ぎ出すのも’寛容論’であろうか。
ヤジロ兵衛のごとく、寛容を謳う側、謳われる側とそれぞれにまっとうな理性、まっとうな感性が伴わないと窮屈になるのはフランスに限らない。
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今でも加藤周一のいう、村社会の遺影である大勢順応主義、水に流す、無責任思考がはびこる日本において、例えば坂口安吾ならば平気で、’不寛容論’とでもして著し、日本の底に濁る、ヘドロの如き自閉的な思考回路に挑んだに違いない、等といったなら冗談が過ぎるか。

生きる術としても不寛容が当たり前の中世で起こった残虐なカラス事件の、理性の閾値はゼロ、zero-tolerance/ゼロトレランス。
そうだ、どこかで聞いた単語だ。今、日本に限らず、世界中どこにでも顔を出しはじめ、21世紀にうごめいている。
ヒットラーは不寛容をおおいに利用し、共和党のトランプは不寛容を売りにしているが、逆にヴォルテールはゼロトレランスから閾値を上げようとした。

時代は進んでいる、だが理性は進化しているのか、していないのか、閾値は上昇しているのか、下降しているのか。
それとも理性は時代とともにパラレルに動くというのは幻想にすぎないのか。

ならば理性って何なのか。

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