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2016年10月28日 (金)

ボブ・ディランの悩み

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ボブ・ディラン/bob dylanのノーベル賞受賞といえば、ある種の神格化されたイメージが付きまとう。
古代ギリシャ、ホメロスの詩と、ボブ・ディランの歌詞は同格と言う人もおり、一時期ボブ・ディランはその名声をうまく利用し、金にはなったがやがて独り歩きを始め、中身は空っぽになり、名声は人生だけではなく、作品もゆがめたことを知る。
また、「昔の私は世界と人間のあらゆる真実を歌で表現しようとしていたが、時が来れば、できっこないと分かるものだ」とも言い、その半生は自分を自分に説明するために彼が張り巡らした神話の集積だった(以上、デビット・ゲーツのボブ・ディランのノーベル賞受賞に関する論評をニューズウィーク日本語版/2016/10/25号,p24-27から引用)。
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一方、ミュージシャンであって詩人ではないディランの歌詞は音楽なしでは物足りず、後代に向けて訴えてきたことは、村上春樹やフィリップ・ロスの物語よりも壮大かもしれないが、文学という定義にも反している。文学とは静かに自分に向けて読むものであり、静寂と孤独は読書と不可分の関係にあり、読書こそが文学に向かう唯一の道である。さらに哀れな知識人はしばらく世界の重要性について考えているふりをするが、その間に大切な何かが失われていく(スティーブン・メトカフのボブ・ディランのノーベル賞受賞に関する論評を同じく、ニューズウィーク日本語版2016/10/25号,p16より引用)。

等々、異見をならべてみたが愚生はボブ・ディラン自身にとってノーベル賞は不必要なものなのか、或いは害悪とでも思っているのか、なんてことはどうでもよろしい。

余談だが一点、ボブ・ディランのいう’人間のあらゆる真実’、この西洋で言うところの’真実’とはいったい何か。ついでに移り行く多様な’事実’はどのように位置付されているのか、そしてどのように削除されているのか、facts & truthの齟齬にこそ文学の旨味を実感する愚生には、ボブ・ディランのきれい過ぎるとも思える思考に異臭を嗅ぎ、エネルギッシュな60年代の、学生運動華やかしけり一時代に聴いた歌も、21世紀の今にいたっては、なんとなく窮屈感も伴って聴こえてしまうのは愚生だけだろうか。

話が過ぎた、’真実’にもどる。
東洋に住む愚生にとって、例えば親鸞のいうところの仏性につながる’真実’、例えば「如来は 即ち これ真実なり」の言葉の中に、なにか心にすとんと納まる響きがある。

さらに一遍さんなら、一切そんなもの、東西のsectionalizeされた思考法なるものも含めて’捨てっちまいな’と言うのだろう・・にしても、しょせん無手勝流で大根を切ったそれぞれの切り口を診るが如きで、例えそれが名刀であれ、錆刀であれ、同じ形はあろうはずもない。

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