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2016年12月 7日 (水)

鍋こわし怪説

2009年、冬、調教中
北海道のこの時期、旬の美味い魚は誰が何と言おうとイソカジカである。それを釣るべく何度も竿を垂れるが、下手な愚生には釣れない。

たまに掛かったイソカジカの腹腔内には、腫大したオレンジ色の肝が、体重比で最大の臓器として最初に目に入る。これをぶつ切りにして身共々鍋にする、これが形容しがたい絶妙なお味で、多くの痴的な釣り師はこれを「ナベ壊し」とぶち、それぞれが一家言を持つ。

同じ肝でも卑しいフランス人が泣きっ面のガチョウに高カロリー食の強制給餌で創作された、フォアグラと称される病理学でいうところのりっぱな脂肪肝よりも、このイソカジカの肝のほうがはるかに美味い、これ請け合いである。

余談だがこのイソカジカの鍋を、食通と称された魯山人が喰ったなら何と言っただろうか。
魯山人著作集の中の、自身がニューヨークのイタリア料理店で食したソーセージとタラのから揚げを激賞し、さらに大使公邸で馳走になったシーバスのお刺身も同じく褒めたたえている数行に、愚生は大いなる疑問を呈したい。

そもそもタラのから揚げなるものは所詮、イギリスなどにみられる、腹を空かした味覚音痴らが喰らうジャンクものの類であり、シーバスのお刺身にいたっては三流以下のそっけないお味だ。
2009年、-15度、オシッコ
思い起こすと今のイギリスと違って、愚生の知る1970年代ころのイギリスの飯は本当にまずかった。
フランスと違って、イギリス訪問者の多くは大英帝国という巨大なパワーの根っこに、文化としてのとてつもなく不味い料理が共存することを叩き込まれ、つくづく日本の良さを実感させられた。
美食という人間欲求の一つを欠くことに、一度ならずも文化的整合性を問うのは常としても、文明と料理はパラレルなものと考える日本的常識人は皆、アングロサクソンに悲哀を伴うショックを受けたはずだ。
仮に北海道の漁師にそれを喰わせたなら、
「こったらもの、気の木っ端と同じだべぇ」と怒ること間違いない。

少し脱線したが、魯山人の風雅、風流に対する審美眼はさておき、味覚のセンスには正直、大いなる疑問あり、などと書いたら叱られるか?

イギリスを引用したついでに漱石から、これも有名な数行を拝借する。
100年前にイギリスを診て、喰って、そして学んだ漱石は帰国後、「はじめて海鼠/ナマコを食いだせる人はその胆力において敬すべく、親鸞の再来とし、はじめて河豚/フグを喫せる漢/おとこはその勇気において重んずべく、の分身なり」、と’吾輩は猫154’の中で、お茶目に表しながらも、その舌鋒はすこぶる鋭い。

こんな漱石の絶妙なるつっこみに親鸞は、或いは大笑いの呈にして、日蓮は、或いは顔を真っ赤にして、怒気鋭く過激な論理を並べたてるやもしれないが、干瓢/カンピョウの酢味噌味しか知らない天下の士たる、苦沙弥先生に至っては、正直なニャンコロにひっかかれ、噛みつかれている。

愚生は、この苦沙弥先生をイギリス野郎と解く。

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