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2017年1月25日 (水)

源氏断章

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宮本常一は「土佐源氏」の中で、
ここは土佐の檮原/ゆすはら村にある、橋の下の乞食小屋のいろりの火がチロチロ燃える炉端で、八十をかなりこえた小さな老人があぐらをかいてすわっている。イチジク形の頭をして頬はこけ、破れた着物の縞も見えないほどに汚れている。
・・・・・
「しかしのう、わしは八十年何もしておらん。人をだますことと、おなご(女)をかまう事ですぎてしまった。・・・あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。
とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。
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また牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出会うと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう(ママ)。<忘れられた日本人/宮本常一著/岩波文庫/p157-158より引用>

さて後世の識者らは宮本常一をしてやれ民俗学者だの、何とか学者だのと気楽に比較する習性があるようだが、21世紀の空調の効いた研究室で、アンドロイド人形が述べるが如き所見には、時代のかもす匂いも、空気のよどみも感じられない。
まるで優等生の答案のような、その無味無臭な所見は、愚生には著者の深奥を消去しているようにも思われる。

余談だがこの宮本常一がついに聞き出したとされるこの言葉は、船曳建夫の「日本人論再考」に、光る言葉として引用され<nhk人間講座2002年6-7月期/p77-78/日本放送出版協会出版より>、同じく佐野眞一はこのこの言葉を宮本常一の代表的傑作とたたえ、盲目の元馬喰/ばくろうの想いは宮本常一の想いに通ずるとして、その筆致はすこぶる強いように思う。<宮本常一が見た日本/佐野眞一著/p19日本放送出版協会出版より引用>
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ただ「土佐源氏」をしてfiction or non-fictionなのか?或いは宮本常一に敬意を表して学術なのか、文学書なのか、の疑義もあるらしいが、もしやchapterに’源氏’を冠したところからして、衆生のeros & thanatosも含意する小説として読めなくもないが。

もちろん谷崎潤一郎好みでないのは明らかであり、九鬼周造の感性に至っては、はなはだ迷惑千万と怒れること然りだろうが、譲れるはずもない人生哲学の対象を、牛とおなごと定めて生き抜いた老人の弁であろう。

人間の物差しは違ったほうが格段に面白い、だから文学は読まれるのか。
また矜恃を持つ価値観は他者から乖離するほどに味わい深いが、そこにはまた同じくらいの苦悩も行間にただよう。
ならば文学の醸し出す問い、そして真の味わいこそ、行間にあるのかもしれない。

  人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 我は行くなり  

                            西田幾多郎書

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2017年1月11日 (水)

バクチ打ち

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歎異抄より、
「たとひ法然聖人にすかされ まひらせて 念仏して地獄へおちたりとも さらに後悔すべからず」(第二節)の有名な句では、信仰が一種の’賭け’になっている。
信仰しても救いがあるかどうかわからないけれど、もし救いがあるとすればそれしか方法がないから、親鸞はそれに’賭ける’ということらしい。<語りおくこといくつか/加藤周一著/かもがわ出版/p128-129より引用>

また善信坊は法然を理由なしに信ずることができた。
逆に人間に対して、証拠を求め、理由を求め、保証を求めるならば、その人間に対する疑惑は尽きない。
証拠がなく、理由がなく、保証がなくても信ずるのは、だまされる覚悟をするのと同じことだ。だまされぬ為には、信じない他はない、信じなければ人格と、人格の接触はおこらない。
つまるところ人間関係もまた二者撰一、それは理性的にはありえないから一種の’賭け’である。<現代日本文學大系82/筑摩書房発行/加藤周一、中村眞一郎、福永武彦蓮著/p166より引用>
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遠くフランスのパスカルはパンセの中で、これも有名なpari/賭けという単語を用いて、明快に説いている。
神はいる、に’賭け’れば死後、神に高く評価され天国決定かもしれない、つまり天国行チケットの確率は50%。
逆に神はいない、に’賭け’れば、そして神がいなければ、天国も地獄もないけれど、もしも神がいれば怒られて地獄に落とされ、天国行チケットの確率は0%。
だからパスカルは神を信ずるというのがパスカルのpari。<世界の名著29、パスカル/責任編集、前田陽一/中央公論社出版>

人間として、どうしても知りたいことがありながらも、なんとしても分からない時、’賭け’に出るよりしようがないという、追い詰められた人間のぎりぎりの選択、よって戦争になり、徴兵されるとフランスの若い兵士の間ではパスカルが読まれるらしい。
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これら親鸞の歎異抄における’賭け’及び、法然に対する’賭け’、そしてパスカルのいう、pariの共通点をして、加藤周一はそれこそが宗教的な思想のいちばん深いところにあるものでは、と重く残してくれた。

加藤周一によるところの、まさに’賭け’から、不条理なるが故に我信ず/credo quia absurdumという格言を誘引するに至る、論旨を煮詰める手法は実にお見事であり、読者をいまだに唸らせ続ける。

だが巷には、同じ’賭け’をして、あたかも政治的ideologyの対立の如きに、何故か保守主義者だけが経済発展の為とうそぶく、からっ風が舞うのもまた、日本的原風景でもある。

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2017年1月 1日 (日)

ヒトデ釣り名人のぼやき

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カレイ釣りをしていると、時々ヒトデが掛かる。
他の釣り師にはあまり掛からないのに、なぜか愚生の竿によく掛かるということは、どうやら相性もいいのだろう。
ヒトデの裏面をよく見ると、真ん中に口らしきものが備わっており、釣り針が飲み込まれているのを見ると、ヒトデにも喰い気のあることが分かる。ならば食欲本能とともに、天敵がよく使うであろう疑似餌などの戦略的な武器を見分ける能力も有していなければ、今まで生きのびてはいなかったに違いあるまい。
ようは’意識’も備わっていなければ、生物としては失格であろう。
ならば優劣はどうであれ脳神経回路、コネクトームが作動する脳神経細胞があるのかもしれない。

イントロが長くなった、ようはヒトデに意識があるのか?
愚生は「有」意識と思う。
さて現在のAIレベルは、まだヒトデの脳神経回路にすら達してはいないのだが、人間は食物連鎖のてっぺんに座し、さも偉そうに「無」意識というおそろしい単語を汎用する。
そんなとてつもない矛盾をはらんだ広莫たる「無」意識を以下に意識してみたいのだが、はたして・・。
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井筒俊彦著作集、9/東洋哲学/p110,111より以下に部分引用する。
「神、光/オールあれ、と言えば光があった」、光に続いて様々に異なる「名」が、森羅たる万物が。旧約聖書的世界表象において、光は存在文節の原点、全存在界の始点、「無」から「有」への、カオスからコスモスへの転換点、である。
この光あれという、コトバの存在喚起力は絶対無文節的意識においては、まったく働いていない。
意識のこの無文節的深層の暗闇の中に、コトバの光がゆらめき始める。すると今まで「無」意識だった意識が「有」意識として文節し、それを起点として、存在の自己文節のプロセスが始まる。
そして、その先端に、万華鏡のごとき、存在的多者の世界が出現する。
意識と存在の形而上的「無」が、こうして意識と存在の経験的「有」に移行する、この微妙な存在論的一次元を、東洋思想の渾沌、西洋のカオスに・・・・。

荘子のような思想家にとっては、渾沌、窮極的には「無」こそ存在の真相であり、深層であるのだから。万物が、いかにも取り澄ました顔付でそれぞれ己れの分を守り、各自があるべき所に位置を占め、互いに他を排除することによって自己を主張しつつ、整然たる存在秩序の空間を形成している。
それがいわゆる「現実」というものだが、そんな既成の秩序を取り払って全てをカオス化し、そこからあらためて現象的多者の世界を見なおしてみる。そこにこそ存在はその真相、深層を露呈する、と荘子は言うのだ・・・etc。
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荘子は現代人にこんなものですと書き残しているが、「無」意識と「有」意識のはざまに揺れる陽炎の如き愚生にとって所詮、「有」意識から「無」意識を意識している限りにおいては、などと書いては出直して来いとお叱りを受けることになる。
全ての根源は渾沌、既成の秩序を取り払って全てをカオス化し世界を見なおせと言う。
今さら書くまでもないことだが荘子の思考の中心には渾沌が居すわる。

さて13世紀の禅者たちが挑んだ、二項対立の超克という宿題/overcome all possible dichotomiesを、例えばそれが「無」、「有」の壁の撤去だ、常住、寂滅の壁の撤去だということなんだ、まだそんなことも解からないのかと、ヒトデは愚生を意識する。
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愚生、只座っていれば足は痺れて、そのうちsiestaを楽しむこととなる。
これがまた実に心地よい、喩えば船上で陽光を浴びながら釣り竿を持ち、siestaを楽しむ我釣りのお作法は、ヒトデの「有」意識に対する、愚生の夢うつつ的「無」意識の対峙であり、簡略化すれば「有」、「無」は釣り糸で繋がっていると安直に考えたりもするが、禅的にはそれではいけないらしい。
もちろんだが愚生の夢うつつ的「無」意識とは、荘子のいう本来のそれとは、比較すらはばかられるものであることは重々承知のつもりだが、荘子の真相、深層の完全な理解にはほど遠い。

畢竟ヒトデがのたまうように、「有」意識と「無」意識の区別は、とどのつまりないんだと書きなぐれば、印可の偽証に相候、・・・喝破される事然り。

「無」意識とは分からん、もしも正解がみつけられたならいつの日にか・・、ここに愚生の未熟な能力の限界をさらし、新年を迎えることとなった。

あけまして おめでとう ございます

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