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2017年1月11日 (水)

バクチ打ち

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歎異抄より、
「たとひ法然聖人にすかされ まひらせて 念仏して地獄へおちたりとも さらに後悔すべからず」(第二節)の有名な句では、信仰が一種の’賭け’になっている。
信仰しても救いがあるかどうかわからないけれど、もし救いがあるとすればそれしか方法がないから、親鸞はそれに’賭ける’ということらしい。<語りおくこといくつか/加藤周一著/かもがわ出版/p128-129より引用>

また善信坊は法然を理由なしに信ずることができた。
逆に人間に対して、証拠を求め、理由を求め、保証を求めるならば、その人間に対する疑惑は尽きない。
証拠がなく、理由がなく、保証がなくても信ずるのは、だまされる覚悟をするのと同じことだ。だまされぬ為には、信じない他はない、信じなければ人格と、人格の接触はおこらない。
つまるところ人間関係もまた二者撰一、それは理性的にはありえないから一種の’賭け’である。<現代日本文學大系82/筑摩書房発行/加藤周一、中村眞一郎、福永武彦蓮著/p166より引用>
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遠くフランスのパスカルはパンセの中で、これも有名なpari/賭けという単語を用いて、明快に説いている。
神はいる、に’賭け’れば死後、神に高く評価され天国決定かもしれない、つまり天国行チケットの確率は50%。
逆に神はいない、に’賭け’れば、そして神がいなければ、天国も地獄もないけれど、もしも神がいれば怒られて地獄に落とされ、天国行チケットの確率は0%。
だからパスカルは神を信ずるというのがパスカルのpari。<世界の名著29、パスカル/責任編集、前田陽一/中央公論社出版>

人間として、どうしても知りたいことがありながらも、なんとしても分からない時、’賭け’に出るよりしようがないという、追い詰められた人間のぎりぎりの選択、よって戦争になり、徴兵されるとフランスの若い兵士の間ではパスカルが読まれるらしい。
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これら親鸞の歎異抄における’賭け’及び、法然に対する’賭け’、そしてパスカルのいう、pariの共通点をして、加藤周一はそれこそが宗教的な思想のいちばん深いところにあるものでは、と重く残してくれた。

加藤周一によるところの、まさに’賭け’から、不条理なるが故に我信ず/credo quia absurdumという格言を誘引するに至る、論旨を煮詰める手法は実にお見事であり、読者をいまだに唸らせ続ける。

だが巷には、同じ’賭け’をして、あたかも政治的ideologyの対立の如きに、何故か保守主義者だけが経済発展の為とうそぶく、からっ風が舞うのもまた、日本的原風景でもある。

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