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2017年6月25日 (日)

下手のイカ釣り

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愚生如きの横着な釣り人にとって、イカ釣りはめんどい。
喰いたい一心で釣行するも、墨はかけられるわ、逆に喰い付かれるわと、いつも散々なめにあわされる。イカ様はお利口さんで、愚生を小馬鹿にする術をきちんとわきまえている。
要するにイカ様の有意識の証明であろう。

下手の釣り談義はさておき、科学者と哲学者それぞれのイカに関する比喩的な奇譚とでも読める書を2冊、書棚から引っ張り出す。

まず養老孟司
現在の科学は、専門の科学者によって運営されています。じつはこれが大きな問題なのです。専門の科学者というのは、論文を書く人であって、生物学者であれば生物を題材にして論文を書く。
生物を題材にして論文を書くことが必要なのです。論文を書かなければ学者として認められず、評価されない、研究費がこない、仕事にならない、だから論文を書くのです。ところがその作業をよく考えてみると、論文を書くということは、生きたシステムとしての生き物を止めてしまうこということです。
論文に書いてあることを言葉の羅列を生き物だと思う人はいません。すでに生き物が情報となって止まっているのですから。これは生物学が一つ誤解している点です。誤解しているというか考えていません。生き物というのは動いている。しかしその動いているものを止めないと論文にならない。ここがポイントです。非常にやさしくいうと、イカをスルメにするのが生物学です。スルメとは止まっている対象物で、イカというのは生きている対象物です。著者の専門分野である解剖学をやっているあいだ中、「人間加工して、人間のことを研究しているっていっているけど、それはスルメからイカを考えてんじゃないの」といわれ続けました。もっとはっきりいう人は「スルメを見てイカがわかるか」と表現します。私が大学に入るまでぐらいは、「大学に行くとバカになる」というのは世間の常識にあったのですが、このことが今になってよく分かりました。イカをスルメにすること、つまり生きて動いているものを止めることはうまくなる。そして止まったものを、情報処理することは非常に上手になる。しかし生きているものそのものに直面するというか、そういうものをほんとうに相手にして扱うということは下手になるような気がします。<養老孟司&茂木健一郎共著/スルメを見てイカがわかるか!/角川書店/2003年出版、p14~16より引用>

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引用が長くなったが、文意は既に分かりきった2次元の限界、動態の静止による生物学の研究手法批判にして、ならば新たな研究手法でもあるのかと期待しつつ読んだが、しょせん自省を含んだスルメの目線、つまり養老孟司は今風の西洋的な目線の物足りなさと限界と、それ以上に日本人が忘れかけている東洋的目線の重要性を忘れていないのがいい。

ならば生物学などと、こむずかしいことはさておき、能天気に切り口を変えてみよう。
イカは獲りたてを船の上で干し、炭火で炙って喰うのがいい。
「そったらことも分かんねぇで、偉そうな口をたたくな」、
と赤黒いお顔の、見るからに焼酎焼けしたイカ漁師の舌鋒は鋭い。
愚生もご馳走にあやかったことがあるが、実に旨い。

真っ暗な海の上で、度胸と五感だけを頼りに稼きまくった昔のイカ漁師は、生物学から航海術、気象学まで習得していた。
漁師は学会、ペーパーとは無縁な職種だが、その特異な経験、実績は、たとえそれが失敗であれ、しかと口伝として船頭から乗り子へ、親から子へと残すのが日本古来の流儀と聞く。
最近よく耳にする、天気予報が当たらないだの、しばしば外れるなどといった泣き言は、昔の漁師は口が裂けても言わなかった。
それは漁師の宿命であろう、板子一枚で天と地が隣り合う職業ゆえ、自らが命を懸けて判断するものであり、それをのたまうことは即ち、未熟さの露呈にほかならない。

この口伝こそが今で云う所の論文であり、本邦に西洋式の気象学なる手法が導入されるまで、再現性、客観性を有する本来の学問だったのだろうと勝手に想像する。

余談が過ぎたが、養老孟司があえて書いた「大学に行くとバカになる」という世間の常識とは、西洋科学的手法、例えばそれが、nanoからdnaに至る縦断面的な情報処理に頼らざるを得ない現実を前にして真逆の、東洋の統合された立体的思考、つまりイカ様の目線の重要性を説き、叡智の覚醒を促していると読めなくもない。
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次に中沢新一の書評
波多野一郎はモントレー漁港で大量に水揚げされたイカに’死’を見いだして、自らのすざまじい体験とシンクロして、イカの実存から、『イカの哲学』という小冊誌を著した。
いっけん軽そうな運筆の中には、筆者の重い体験から派生する、洞察力には唸らされる。波多野一郎には、深奥をまだまだ説いて欲しかったが残念である。

ここでは引用はしないが中沢新一はその解説の中で、
「人が他の生物と共有する生命現象の原理と、私たちホモサピエンスの知性活動を動かしている原理を一つにつなぐ、真のミッシングリンク/missing linkを見つけ出さなければならない。それは人の心の秘密に触れているから、思考におそろしく深いダイビングを要求することになるだろう」と、難問を残している。<中沢新一・波多野一郎共著/イカの哲学/集英社新書2008年出版/p163より引用>

さて地球上に一個の生命体が出現したその瞬間まで、時間軸でさかのぼることが可能となった今、発生学者らを筆頭に、我々人間は、はるか祖先の原初生命体を想像し、また将来における、例えばそれが未来学者らを筆頭に、地球物理学者を含む、その先頭はAIかもしれないが、高度に発達した、或いは発達し過ぎたと言っても過言ではない、生命体の全消滅時期を、例えそれが主因であれ、なかれ、おおよそ計算できる時代となった。
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余談だが、円空にして、また弥勒菩薩にしても、生命体の全消滅それ自体を必然として思考したなら、そもそも救済の論理は不成立だろうなどと、不遜なことは申すまいが、数十億年後に、菩薩として再登場し、救済にあたるお役目を釈尊より仰せつかっているとする妙な言説が想い起される。
釈尊は、人の生に対する死を直観として思考したみたいだが、それは個人の死に関してであり、全ての人類の死、滅亡まではお見通し出来なかったようだ。

もしも枯渇した球体としてでも物理的に存続していたなら、その時、そこへ現れた両菩薩は目に映る惨憺たるchaos、無生物の廃墟を前にして、はたして何を問うのか。

日本の21世紀の今に残る、自然に神を棲ませてまで守り、循環させるという優れた思考とは真逆の、西洋的思考のひとつの核心でもあろう、’自然は操れる’とする愚思考が氾濫する時間軸の中で波多野一郎は、イカ様の有意識に対するヒト様の無意識、人品を重く問う智力を残してくれた。

さてさて、魚ならぬイカの釜中に遊ぶ姿は、実は人の釜中に遊ぶ姿なのか。
とここまで脈絡に欠ける駄文を連ねてただ今、丑三つ時、窓明かりにでも誘われたのか、部屋の前の楡の木にカッコウが一羽、狂い啼きしている。

郭公 然誰見ず 誰聞かず 恰愚ブログ如

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