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2017年8月20日 (日)

下手のソイ釣り

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その昔と言っても明治の初めに、イギリスは田舎のヨークシャー出のおばちゃん、この旅好きの通称バード/イザベラ・バード/isabella birdが函館到着後、森町から25mileをフェリーで室蘭に入り、ドサンコの背にまたがり、時に渡渉と難儀しながら平取のアイヌ部落を目指した珍道中記は今でも面白い。
この名著の誉れ高い、『日本奥地紀行,unbeaten tracks in j,』の中に記載されているように、バードおばちゃんは白老から眺めた樽前山がいたく気に入ったようで、旅好きの自らが過去に見た海外の山々と比べて、その絶景を美文で称えている。
そんな樽前山を、太平洋上より眺めながら釣り糸を垂れ、至福の一時を過ごす。

時にうとうとしながら、小さなカレイ釣りを楽しんでいたところ、やけに重量感のある手ごたえが釣り竿に伝わり、瞬時にして睡魔は吹っ飛ぶ。
釣り師の最高の瞬間を楽しみつつゆっくりと巻き上げると、立派な魚体で初見の、薄黄色いお魚さんがタモ網に入った。

釣り師と目を合わせたこのお魚さんは、さぞかしトンマな奴に釣られたと後悔したに違いないが、悲壮感など更になく、野武士を思わせる面構えは、威風堂々として怒気鋭く、鋭い歯に加えて、体表に数条の黒い縞模様を入れたファッションセンスを見ても、こやつの美学はなかなかのものである。
お名前は、漁師用語で’キゾイ’と教わる。

だが不思議なことがひとつ。
タモ網の中で暴れるキゾイには釣り針が口の中どころか、他のどこにも引っ掛っておらず、しかもオモリが見当たらない。よくよく見るに、なんとナス型で80号の赤いオモリを咽頭部奥までしっかりと飲み込んでおり、引き抜こうにも簡単ではなかった。

なんと、400円のオモリでソイが釣れちゃった。

帰宅後にキゾイの胃内を見ると、小さなカニだの、貝殻、ヒトデだけで満たされており、小魚などは見当たらない。他にもっとマシな餌はあるだろうに、釣り針の餌の美味しそうなイソメすら無視して、オモリに喰いつくキゾイの捕食行動は、はたして偶然なのか、必然なのか。
余談だが生物界に「偶然」など、あるわけがないと考えてはいけない。
あるいは人たる生物は、これからも生き残るのは必然と考えてはいけない。
生物は、乱暴な言い方をするならdnaのコピペのミスから始まり、その時と場所で生死を懸けた応用問題が次々と課せられた。知られるように多くの生物は不解答で即絶滅したものと、逆にdnaの変異を武器として正解を得、奇跡的に生き残った現在の少数の生物と二つに分けられるが、人をして将来も生存は当たり前、必然だと考えるのはせいぜいアメリカのトランプ大統領くらいのものだろう。
さて未熟な釣り師だが、単に「偶然性」の一文字でかたづけてしまっては、キゾイに申し訳ない。そこにはしたたかな生き残り戦略、つまり習い性という「必然性」もあるに違いない。
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勝手気ままな戯言はここまでだが、人もお魚さんに劣らず妙な生き物で、「偶然」にこだわった哲学者が知る限り、ひとりいる。
九鬼周造がまず「偶然性の問題」と題して、ひとつの答えと言うよりはむしろ、考え方を示し、後の書には思考に経年的な変遷があるのもまた、見逃せない。

九鬼周造によれば、今更、要旨を書くまでもないが、「必然」の本質が同一性に、「偶然」の本質は同一性が破られたあとの二元性にあると考える。あの有名な定言的、仮説的、離接的という三つの視点から「偶然性」、「必然性」を分かりやすく説いている。ところが二元性を生み出すものは「無」であるというから、愚生如きには難解である。
九鬼周造の説く「無」とは、絶えず世界に裂け目をもたらす運動であると単純に、しかも文字通りに解釈しえたとしても、一見さんの愚生は門前払いされ、その深奥に入り込めない。
本書を読み解くには、つまり九鬼周造を知るには、九鬼周造の「無」を理解しなければ、受け入れられない憎さもある。

また盟友であった西田幾多郎の、さらには禅坊主ののたまう「無」とも異なり、また一遍さん、道元禅師然りで、それぞれがそれぞれの「無」を含意している。
例えば三木清の「虚無」にしろ、西田幾多郎の「絶対無」にしろ、「無」なるものをそれぞれが、名刀か、あるいは錆刀か知ったことではないが、ぶった切ったそれぞれの切り口を利けという。

日本人たるもの、せめて「無」なるもの、くらいは理解しなければなるまいが愚生如きには、一生の問いでもある。

九鬼周造は続いて、明治以前の日本人をして「自然」と言う単語は山川草木を表すものではなく、「自然に」などと動詞につながる、副詞的な使い方がされていたと述べる。
つまりは「おのずから」などとする、伝統的な「自然」観を、西洋近代の「自由」と比較する。
ここで自由とは「必然」から解放されるとするのが一般論だが、それは「恣意」であり、結局人間は「因果的必然」に支配されることにあると、論破している。
そして「日本的性格」論に至っては、「偶然性」のままに生きる「自然」と、「目的的必然」に服従するという意味での西洋的「自由」とが、日本では融合しているという。
つまり九鬼周造の「偶然性の問題」、「いきの構造」から「日本的性格」に至って、「偶然性」、「必然性」の融合に至ると言うが、またまた能力の限界を知らされる。
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さて、キゾイとオモリの関係性を、飛躍して九鬼周造と祇園の芸者との関係性になぞらえたところで、核心であろう「無」はもちろん理解しえないが、無知なるが故の、的はずれな問いも生ずる。
例えば21世紀的手法のひとつの、主を排した客観、例えばそこに科学を持ち込み、もし数次の危険率のもとで統計学的有意性の有無を突き付けたなら、さらにはパスカルのパンセの中でも有名な、pari/賭けという概念、確率論を突き付けたなら意地悪が過ぎるにしても、21世紀とはこんな九鬼周造の感性に似合う、うま味、色気を消し去る時代なのかもしれない。

さらに九鬼周造といえば、上記の祇園、芸者のほかに、京都帝大、天心をイメージしてしまう愚生だが、明治に海外に発ち、想定外の出来事、出会い、つまり偶然性にこそ人の世を見た九鬼周造は、例えばsnsなどで同好、同志だけが集まり、同趣味を楽しみ、それを拡散させるのを避けるといった、ある意味で鎖国趣味的で退屈な、ばかばかしいほどに必然性を求める今生に、なにを想うか。

必然は、やはり因果であり、恣意なのか、そこにあるのは自由なのか、あるいはそうでないのか?

そろそろ下手の釣り論にもどろう。
昨今のAIを駆使し、徹底して必然性を求めるご時世をして、それを文明の発展とうそぶく世知辛い娑婆に成り下がったとしても、船の上は別世界だ。

ならば今度は、inductiveにそれを証明してみようではないか。
のほほんと、真っ赤なオモリだけで釣りをしてみるか。

生物が醸し出す愉快な面白さと我を忘れて遊ぶ楽しさにこそ、釣りの本当の面白さが詰まっているのに、また愚問に終始してしまった。

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