2017年1月25日 (水)

源氏断章

・・・
宮本常一は「土佐源氏」の中で、
ここは土佐の檮原/ゆすはら村にある、橋の下の乞食小屋のいろりの火がチロチロ燃える炉端で、八十をかなりこえた小さな老人があぐらをかいてすわっている。イチジク形の頭をして頬はこけ、破れた着物の縞も見えないほどに汚れている。
・・・・・
「しかしのう、わしは八十年何もしておらん。人をだますことと、おなご(女)をかまう事ですぎてしまった。・・・あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。
とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。
・・・・・
また牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出会うと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう(ママ)。<忘れられた日本人/宮本常一著/岩波文庫/p157-158より引用>

さて後世の識者らは宮本常一をしてやれ民俗学者だの、何とか学者だのと気楽に比較する習性があるようだが、21世紀の空調の効いた研究室で、アンドロイド人形が述べるが如き所見には、時代のかもす匂いも、空気のよどみも感じられない。
まるで優等生の答案のような、その無味無臭な所見は、愚生には著者の深奥を消去しているようにも思われる。

余談だがこの宮本常一がついに聞き出したとされるこの言葉は、船曳建夫の「日本人論再考」に、光る言葉として引用され<nhk人間講座2002年6-7月期/p77-78/日本放送出版協会出版より>、同じく佐野眞一はこのこの言葉を宮本常一の代表的傑作とたたえ、盲目の元馬喰/ばくろうの想いは宮本常一の想いに通ずるとして、その筆致はすこぶる強いように思う。<宮本常一が見た日本/佐野眞一著/p19日本放送出版協会出版より引用>
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ただ「土佐源氏」をしてfiction or non-fictionなのか?或いは宮本常一に敬意を表して学術なのか、文学書なのか、の疑義もあるらしいが、もしやchapterに’源氏’を冠したところからして、衆生のeros & thanatosも含意する小説として読めなくもないが。

もちろん谷崎潤一郎好みでないのは明らかであり、九鬼周造の感性に至っては、はなはだ迷惑千万と怒れること然りだろうが、譲れるはずもない人生哲学の対象を、牛とおなごと定めて生き抜いた老人の弁であろう。

人間の物差しは違ったほうが格段に面白い、だから文学は読まれるのか。
また矜恃を持つ価値観は他者から乖離するほどに味わい深いが、そこにはまた同じくらいの苦悩も行間にただよう。
ならば文学の醸し出す問い、そして真の味わいこそ、行間にあるのかもしれない。

  人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 我は行くなり  

                            西田幾多郎書

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2017年1月 1日 (日)

ヒトデ釣り名人のぼやき

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カレイ釣りをしていると、時々ヒトデが掛かる。
他の釣り師にはあまり掛からないのに、なぜか愚生の竿によく掛かるということは、どうやら相性もいいのだろう。
ヒトデの裏面をよく見ると、真ん中に口らしきものが備わっており、釣り針が飲み込まれているのを見ると、ヒトデにも喰い気のあることが分かる。ならば食欲本能とともに、天敵がよく使うであろう疑似餌などの戦略的な武器を見分ける能力も有していなければ、今まで生きのびてはいなかったに違いあるまい。
ようは’意識’も備わっていなければ、生物としては失格であろう。
ならば優劣はどうであれ脳神経回路、コネクトームが作動する脳神経細胞があるのかもしれない。

イントロが長くなった、ようはヒトデに意識があるのか?
愚生は「有」意識と思う。
さて現在のAIレベルは、まだヒトデの脳神経回路にすら達してはいないのだが、人間は食物連鎖のてっぺんに座し、さも偉そうに「無」意識というおそろしい単語を汎用する。
そんなとてつもない矛盾をはらんだ広莫たる「無」意識を以下に意識してみたいのだが、はたして・・。
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井筒俊彦著作集、9/東洋哲学/p110,111より以下に部分引用する。
「神、光/オールあれ、と言えば光があった」、光に続いて様々に異なる「名」が、森羅たる万物が。旧約聖書的世界表象において、光は存在文節の原点、全存在界の始点、「無」から「有」への、カオスからコスモスへの転換点、である。
この光あれという、コトバの存在喚起力は絶対無文節的意識においては、まったく働いていない。
意識のこの無文節的深層の暗闇の中に、コトバの光がゆらめき始める。すると今まで「無」意識だった意識が「有」意識として文節し、それを起点として、存在の自己文節のプロセスが始まる。
そして、その先端に、万華鏡のごとき、存在的多者の世界が出現する。
意識と存在の形而上的「無」が、こうして意識と存在の経験的「有」に移行する、この微妙な存在論的一次元を、東洋思想の渾沌、西洋のカオスに・・・・。

荘子のような思想家にとっては、渾沌、窮極的には「無」こそ存在の真相であり、深層であるのだから。万物が、いかにも取り澄ました顔付でそれぞれ己れの分を守り、各自があるべき所に位置を占め、互いに他を排除することによって自己を主張しつつ、整然たる存在秩序の空間を形成している。
それがいわゆる「現実」というものだが、そんな既成の秩序を取り払って全てをカオス化し、そこからあらためて現象的多者の世界を見なおしてみる。そこにこそ存在はその真相、深層を露呈する、と荘子は言うのだ・・・etc。
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荘子は現代人にこんなものですと書き残しているが、「無」意識と「有」意識のはざまに揺れる陽炎の如き愚生にとって所詮、「有」意識から「無」意識を意識している限りにおいては、などと書いては出直して来いとお叱りを受けることになる。
全ての根源は渾沌、既成の秩序を取り払って全てをカオス化し世界を見なおせと言う。
今さら書くまでもないことだが荘子の思考の中心には渾沌が居すわる。

さて13世紀の禅者たちが挑んだ、二項対立の超克という宿題/overcome all possible dichotomiesを、例えばそれが「無」、「有」の壁の撤去だ、常住、寂滅の壁の撤去だということなんだ、まだそんなことも解からないのかと、ヒトデは愚生を意識する。
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愚生、只座っていれば足は痺れて、そのうちsiestaを楽しむこととなる。
これがまた実に心地よい、喩えば船上で陽光を浴びながら釣り竿を持ち、siestaを楽しむ我釣りのお作法は、ヒトデの「有」意識に対する、愚生の夢うつつ的「無」意識の対峙であり、簡略化すれば「有」、「無」は釣り糸で繋がっていると安直に考えたりもするが、禅的にはそれではいけないらしい。
もちろんだが愚生の夢うつつ的「無」意識とは、荘子のいう本来のそれとは、比較すらはばかられるものであることは重々承知のつもりだが、荘子の真相、深層の完全な理解にはほど遠い。

畢竟ヒトデがのたまうように、「有」意識と「無」意識の区別は、とどのつまりないんだと書きなぐれば、印可の偽証に相候、・・・喝破される事然り。

「無」意識とは分からん、もしも正解がみつけられたならいつの日にか・・、ここに愚生の未熟な能力の限界をさらし、新年を迎えることとなった。

あけまして おめでとう ございます

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2016年12月 7日 (水)

鍋こわし怪説

2009年、冬、調教中
北海道のこの時期、旬の美味い魚は誰が何と言おうとイソカジカである。それを釣るべく何度も竿を垂れるが、下手な愚生には釣れない。

たまに掛かったイソカジカの腹腔内には、腫大したオレンジ色の肝が、体重比で最大の臓器として最初に目に入る。これをぶつ切りにして身共々鍋にする、これが形容しがたい絶妙なお味で、多くの痴的な釣り師はこれを「ナベ壊し」とぶち、それぞれが一家言を持つ。

同じ肝でも卑しいフランス人が泣きっ面のガチョウに高カロリー食の強制給餌で創作された、フォアグラと称される病理学でいうところのりっぱな脂肪肝よりも、このイソカジカの肝のほうがはるかに美味い、これ請け合いである。

余談だがこのイソカジカの鍋を、食通と称された魯山人が喰ったなら何と言っただろうか。
魯山人著作集の中の、自身がニューヨークのイタリア料理店で食したソーセージとタラのから揚げを激賞し、さらに大使公邸で馳走になったシーバスのお刺身も同じく褒めたたえている数行に、愚生は大いなる疑問を呈したい。

そもそもタラのから揚げなるものは所詮、イギリスなどにみられる、腹を空かした味覚音痴らが喰らうジャンクものの類であり、シーバスのお刺身にいたっては三流以下のそっけないお味だ。
2009年、-15度、オシッコ
思い起こすと今のイギリスと違って、愚生の知る1970年代ころのイギリスの飯は本当にまずかった。
フランスと違って、イギリス訪問者の多くは大英帝国という巨大なパワーの根っこに、文化としてのとてつもなく不味い料理が共存することを叩き込まれ、つくづく日本の良さを実感させられた。
美食という人間欲求の一つを欠くことに、一度ならずも文化的整合性を問うのは常としても、文明と料理はパラレルなものと考える日本的常識人は皆、アングロサクソンに悲哀を伴うショックを受けたはずだ。
仮に北海道の漁師にそれを喰わせたなら、
「こったらもの、気の木っ端と同じだべぇ」と怒ること間違いない。

少し脱線したが、魯山人の風雅、風流に対する審美眼はさておき、味覚のセンスには正直、大いなる疑問あり、などと書いたら叱られるか?

イギリスを引用したついでに漱石から、これも有名な数行を拝借する。
100年前にイギリスを診て、喰って、そして学んだ漱石は帰国後、「はじめて海鼠/ナマコを食いだせる人はその胆力において敬すべく、親鸞の再来とし、はじめて河豚/フグを喫せる漢/おとこはその勇気において重んずべく、の分身なり」、と’吾輩は猫154’の中で、お茶目に表しながらも、その舌鋒はすこぶる鋭い。

こんな漱石の絶妙なるつっこみに親鸞は、或いは大笑いの呈にして、日蓮は、或いは顔を真っ赤にして、怒気鋭く過激な論理を並べたてるやもしれないが、干瓢/カンピョウの酢味噌味しか知らない天下の士たる、苦沙弥先生に至っては、正直なニャンコロにひっかかれ、噛みつかれている。

愚生は、この苦沙弥先生をイギリス野郎と解く。

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2016年10月13日 (木)

月代にちょんまげ

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愚生のじいさんは明治に生まれ、ひい爺さん以前になると江戸時代生まれとなる。
先代それぞれの時代で、未来の予測はいかがなものだったのか、想像しただけでも面白い。
例えば車、携帯電話などは想定外にしても、アメリカという国の名前くらいは知っていたかもしれない。それは遠くにあって、けとうと呼ばれる赤鬼が住む、恐ろしい国であり、後々12時間で行き来するなどとは夢にも思わなかっただろう。こんな不遜なことを想像すると、時代遅れのほほえましい可笑さも感ずる。

「知るべし、自己に無量の法あるなかに、生ありなんたら」と道元禅師は残したが、昔の人もみな、「いま、ここ」に存し、思考し、代謝を終えた。当然のことながら、ほほえましい記憶はヴァージョンアップし、やがてその立場を逆転する。

正法眼蔵の「有時」すら、いまだに理解できない愚生だが、「ビックデータと人工知能」 西垣通著/中公新書を途中まで読み、以下に要所を抜粋する。
人間は死なないという例外はなさそうだが、人工知能(artificial intelligence略してAI)が発達しシンギュラリティ(技術的特異点)という仮説にすぎない信奉者のなかには、近未来に人間の不死性が可能だと主張する者もいる。
未来学者レイ・カーツワイルが言うには2045年に至り、テクノロジーが急速に変化し、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような未来がくる。
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脳のリバース・エンジニアリングという人の脳内のシュミレーションモデルの構築、マインドアップローディングというある特定の人物の生理学的な特徴を全てスキャンし、コンピューター基板上に再現するといった恐るべき企て。 つまり人格、記憶、技能、歴史の全てが取り込まれる。
現実にはすでにgoogle社支援で、アメリカのある大学のプロジェクトではニューロン結合をコンピューターで実現させる脳神経のネットワークの研究が行われ、すでに線虫の300個程度のコネクトームが作られ、今後は1000億個からなる人の脳神経細胞のコネクトーム作成が目標という。

脳科学とAIの結びつきをしてカーツワイルはどこまでも楽天家で、人間のほとんどの知的活動は人工知能のおかげで増強され、飢餓、病気などは消失、経済的貧困、政治的対立、さらには地球環境問題も解決にむかうと考えているのだろうか。
人間のはるかに超えた知力をもっているのだから、それが出現させるのは天国のはずである・・・。
一方、悲観派のマイクロソフトのビルゲイツはAIへ懸念を示し、起業家イーロン・マスクは悪魔になぞらえ、ホーキンス博士は「人類の終焉」を意味するかもしれないと示唆し、レミングの集団自殺に例える識者もいる。AIが意識をもち、「自己」という概念を認識し、学習をつづけて行けば、やがて生物のような進化をとげる、という思想が厳然とあり、もしも人間に敵対したなら、電源をきってしまうばそれだけのこと・・・etc。
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以上、深夜の露天風呂気分で窓を開けて湯に浸かり、本書を読み耽る。冷やりとした秋風を楽しみ、離乳した仔馬の母馬を呼ぶ泣き声とともに、遠くには雄鹿の雌鹿を呼ぶ遠吠えを聞きながら心地よく読むことができるのは、ある意味で北海道人の特権でもあろう。
ところが途中まで読み進むうちに本が湯に落水し、残り半分は未読ということに相成ってしまった。

書中にはoptimist vs pessimistの単純な二項対立も一応提起され、識者はこれを文明の発展とうそぶく術も心得ている。
例えば不老不死の薬を求めた人がいて、例えば心臓が止まってもなおボディバッグの中でドライアイスに浸かり、いつの日にか、技術進歩により再生を願っている人がいて、例えばstap細胞の初期化でとてつもない長寿を願うたくさんの人がいる一方、逆に拒否する人がいるなど、価値観はさまざまであろう。
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人は所詮、便利で自らに都合のよいツールを求めたがる利己的な生物である以上、いずれの日にか、生物と機械のあいだの境界線とは、などなど新たな公案が提起されるのか。

AIが自動的に深層学習deep learningして、知識knowledgeを集積し、賢くなって知恵wisdomが備わったとして・・・、さらに1000億個をはるかに超えるコネクトームが完成したなら、きっと難病なるものは地上から消え、車の自動運転など簡単にやってのけ、空、海を自由に動き回り、宇宙旅行は当たり前で、お月様旅行の格安航空券ならぬロケット発売等々、アトムでさえ夢想すらしなかった事をやってのけるのだろう・・・わが半究尽の「吾有時」成りにて候。

pessimisutはそれまで地球はもつのかとシニカルに問うが、愚生のようなoptimistの気楽な未来予測能力は、月代にチョンマゲを結っていたひい爺さんと同等か、それ以下か。

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2016年3月 6日 (日)

海の上の露天風呂

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揺れに目を覚まし、ベット前のテレビでgpsを見ると能登半島沖にさしかかったらしい。
朝ぼらけの中、南方には数日前まで滞在した輪島市街とおぼしき街灯が見えた。
日本海を25ノットで北航する船足は、夕刻には松前の島々辺りから徐々に東方向へと向きを変える。
余談だが同じ船旅でも片手にロッド、もう片方には1$のbudweiser小瓶を持って何度となく乗船したnanaimo~ヴァンクーバー島間を航行するカナダ自慢の大型フェリーは、水面に漂う太い流木と舳先が時々衝突しる。その時に発する大きな衝撃音、それもすきっ腹にドーンと響くような重低音と振動に、肝試しとばかりに何度となく襲われ、はじめの頃は驚きもしたが、日本近海ではそれがないことが逆に不思議な感じもする。

やがて時化の津軽海峡に入る。
松前を左舷側に、津軽半島、竜飛岬を右舷に眺めながら、6階客室横の露天風呂に一人浸かり、古本を覗いたり、漁火をぼんやりと眺める。
露天風呂好きの愚生には、まさに至福の一時でもある。
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chapter、「自然について」、である。
ソクラテス以前の古代ギリシャのなんたらとか言った人達は、自然/フュシスを万物/タ・パンタの真のあり方を指し、人間から神々も含むすべてを自然/フュシスと呼び、その真のあり方を考えた。万物/タ・パンタはおのずから生成し消滅するものと見ていたらしい。
古事記にも高皇産霊神/タカミ-ムスヒ-ノカミと呼ばれる神様の中にある、’ムスヒ’はギリシャ語の自然/フュシスと同義語で、ムスは苔ムスの’ムス’つまりは植物的生成を表す動詞であるという。こんな農耕民族の洗練されたanimisticな思考が古代ギリシャと古代の日本に共通するという。
それが芭蕉の’おいのこぶみ’にも見られる。
続いてプラトンのイデアといった超自然的原理を、そこからmetaphysicalな思考と物質的/materialな自然観とは連動してしている。
当時としては異様であったイディア論は、1200年かけて西洋文化圏の伝統となる。例えばプラトン哲学を下敷きにしたキリスト教神学では、神を超自然的原理として、自然をその被造物とみなした。
19世紀後半に至りニーチェが登場し、その物質的自然観、西洋哲学の反省をはじめ、古代ギリシャ初期のあの古い自観を復権することでその乗り越えをはかるのだがその頃、懸命に西洋文化の摂取をはじめた日本人の眼には映らなかった。
そのために日本人は西洋から輸入した物質的自然観と、自分の内にかすかに残響している日本的自然観とに引き裂かれ、せっかくこんなに豊かな自然に恵まれながら、その自然と歪んだ関わり方をしているようだ。(p147-160、木田 元著、新人生論/集英社新書より引用)
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読み終える頃には客船の揺れも次第に大きくなり、湯船は時に溢れ、本を持つ手と顔は冷たくても心地良いが、やがて横殴りの強風に雪が混じりるようになる。
湯煙に潮風、そして吹雪と風情のある贅沢な組み合わせを堪能しながら、下北半島の大間沖に達する頃になると、陽はとっぷりと暮れ、右舷側近くには一列に並んだマグロ船団の漁火だろうか、鮮やかな輝きを放ち、その奥には大間漁港灯台の点滅を見ながら、船は太平洋に出る。

さて要不要の議論は尽くされたのか、海峡の海底までトンネルをぶち抜いて新幹線が開通すると、恰もマスコミが国交省のお先棒を担ぐが如き喧伝と、無批判な北海道民の浮かれたバカ騒ぎに、まさにプラトン流哲学者らの宣った如く、世は増々利便性を際限なく求める。

たわけどもは、あるにこしたことはないとすっ呆け、料金が高いだの、時間がかかり過ぎだのと、さも知ったりと一応御託言を並べ、識者を自称するアカデミアの住民らはこれを文明の発展とうそぶく。

さては日本の至宝であろう、’ムスヒ’の思考を完全消去するつもりか、哀れな日本人の焦燥よ。

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2013年3月 9日 (土)

顔のない円空仏

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北海道で円空仏と称される木仏は数少ないと言われている、その中で日本海沿いの上ノ国町、天の川河口辺りで拝見させて頂いた、観音さんには驚いた。

柔和であったろうそのお顔、表情は万人に等しく分け与えられたのか、すっかり擦り減っている、今でも近在の人達は触るという。

いずれ、小さな木片となって消滅するなどと唯物的な見方も否定はしない、それもまた円空さんの願いでもあったのだろう。

破材に彫られた円空仏は視覚だけではなく、触覚にも訴えるのは当然のこと、ときに両足で保持し、抱えるようにして彫られ、御仏、諸観音と化したオンコ、ヒガツラのもつ杢は美しく、触れたくなるのもまた、日本人の仏心というものだろう。

逆に宝物などとのたまって人目を避け、仕舞い込んでいる寺社もあるやに聞くが、それは佛心と自心の会話の拒否であり、円空さんの御心に耳しない愚行に過ぎない。

『歓喜する円空』を再々読、その都度新しい発見がある、それは自身の無知に対する警笛であり、自身の深読み出来なかった生き様に対する問いとも読める。

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木っ端を彫る無学な乞食坊主とする従来の評価を日本史における空海に次ぐ人物と評した梅原猛の円空論は面白い、とにかく引き込まれる。
特に異論者と対峙した認識論は読み所の一つでもあるが、読み方によっては円空さんとすっかりsynchronizeしてしまった梅原猛さんの熱き想いはよく伝わってくる。
鋭い考察の中にはときに禁じ手であろう主体と客体が入り混じっている、よって当然ながら危うさも伴う。

又、それもいいではないか、知るとは、そして解るとは、きっとこういうことを指すのだろう。

それにしても円空さんのことを想うと心が弾む、なぜなのだろう。
加えて読後感の良さ、これもまた悪書にはないことである。

余談だが、諸人種と交わればひとつわかることがある。
日本人を名乗る人種は新現象、新知見を浴びせられると、その思考回路はまず’否定’から開始されるようだ。

ご多分にもれず、乞食だの、木喰だのと知性、教養を頭から否定する空疎な円空論が渦巻く世にあって、僧ではない大哲学者であろう梅原猛の円空論はユダヤ系白人であった
gershwinのrhapsody in blueに通ずるものを感じる。

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2012年9月19日 (水)

ニヒルを演ずる

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一昨日、日本vsイスラエルのデビスカップ戦は見事なイスラエルの勝利で終えた。
なぜ国別対抗戦はときめくのか、あるひとは’ナショナリズム’の戦いという、ならば心情的には地域対抗の綱引き合戦と同類であろう。

その昔、ジョン・マッケンローがイワン・レンドルをチキン/chickenとこき下ろし、挙句にその語尾にはヘッドだの、ハートを付けた。なんとも酷い単語だが発する側にも同じチキンが蠢いていたことを観衆は見逃さず、それらを含めてゲームに酔いしれた。

中国では尖閣問題で右派がそれぞれに烏合し、いよいよチキンが賑やかに危ういショウタイムの始まりを告げた。
根っこにはもちろん’ナショナリズム’が潜む、それをときに民族主義と訳される、が愚生はそれを誤訳と考える。

ユーラシアの東端にある日本に住む日本人なるものは所詮人種の混成チーム、言い方を変えればその昔に韓、中からの移民が縄文人と交雑して出来た雑種/ハイブリット種である。またイスラエル人と称する人種もまた同じである。あえて取り上げることもないがイスラエル人には白人、黒人の他、少数だがイスラム出身のアラブ人も含んでいる。
それはdnaレベルでも証明されている。
従って今じゃピュアなdnaのみで構成される民族なんてありゃしないが国境という線引きでそれは一気にヒートアップする。
俺達のものを取った、盗られたと餓鬼の喧嘩の如く、だがこちらはクーリングダウンの方法を持ち合わせていない。

「近代日本のナショナリズム」/大澤真幸著には’ウルトラナショナリズム’と表現されている思想の持つ嗜好性、毒性、発生メカニズムを論考しているが特段目新しい論はない、そもそもそこに何がしの緩衝剤を期待する愚生の愚かさを改めて知らされるだけである。

所詮、’ナショナリズム’なんて食べ過ぎ注意と但し書きされた珍味程度のものでしかないが飲兵衛には必要かくべからずの代物でもある。
また猫にあってはマタタビのようなもの、酔い、ふら付き、知覚鈍麻の症状をほぼ正確に誘引するが閾値を越えると重大な結果を伴うのは言うまでもない。

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日本人たるものイデオロギー的ポジションは十人十色でいい。
「そんなもの、くれてやれ」の意見もあっていい。
ただ一点、団塊の世代の愚生には気になることがある。
メディアに流れる画像を是非、善悪、正邪を取り払って見ると彼の地のきっと一握りの若者を中心としたエネルギッシュなデモ、破壊行動は催涙ガスにまみれたかの10.21新宿騒乱事件を思い出すが、対照的に日本に住む若者の無批判、無行動ともみえる思考の根っこにニヒリスティックなものが宿るのだろうか。

ならば日本の若者らは各々真のニヒリズムと真摯に格闘したのか。
所詮、愚問だと叱られるにしても、ニヒルを演ずるにはそういう礼儀が必要であろう。

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2012年9月 2日 (日)

ある小児科医の目線

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「古事記」なるものを書いた人は朝鮮半島の国々、唐、天竺を知っていたのだろうがそれらの創造に一切触れていないのは妙な気もする。
また18世紀にオランダ製の世界地図が日本に入ってきても本居宣長の世界観は神代のそれから変わらず、日本が世界の中心であって、世界があってその一部分として日本があるとは考えなかったところがとってもおかしい。

一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団の領域を「ここ」として意識する。
そして「ここ」から世界を見るのであって世界秩序の全体からここ/日本をみるのではない。
村社会のこの千年にわたる原理的思考方法は莫大な授業料を支払っても21世紀に連綿と続いているらしい。

今、日本は韓大統領に徹底的に蔑まれている、韓国はどの為政者も政権末期になると目先の得点のためポピュリズムとナショナリズムを合体させる性癖があるようである。

今、日本は尖閣に上陸した、たくましくもあり何か欠落した中国系の右翼さん等に怒られる国家の態である。
自尊心を満面の笑みにただよわせ英雄として帰国した右翼さんと、同時に物悲しくて焦点の定まらない、加えてこちらも何か少し欠けている脂ぎった野田首相の画像は世界に網羅された華僑のメディアネットワークに「卑しい小日本」として徹底して流されている。
あるイギリス経済誌によると将来の日本の経済力はgdp比で韓国の半分になり、中国はいずれ世界一となる予想らしい。

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かならすしも「から心」と「やまと心」の二項対立とは思わない、が伊勢の松坂で小児科を開業していた本居宣長はそのお母さん達の心の深部に古より引き継がれている「やまと心」とやらを「古事記」までさかのぼって研究、考察し、後世に丸山眞男はそれを日本人の奥底に宿るものとして、また加藤周一は土着観として研究し、さらに大江健三郎はその毒性を主張しているのは前ブログに記した通りであろうか。

愚生の住む’村’から’日本国’まで日本人insiderと異人outsiderの区別、差別を必要とする思考を持ってして、例えばアウシュヴィッツ、南京虐殺という応用問題に対して前者は正対して解決し独仏の信頼関係は回復、本邦ではそれを’水に流した’。

’ムラの内側’、’ムラの境界’で生じる問題を’水に流す’先人の教えを美徳とするムラビト日本人、そして過去を水に流し続けた政治家に棲む旧ヴァーションの「やまと心」は悩ましいかぎりと思いつつ愚生にもしっかりと宿っている。

一方、お向かいの国々は反日といって謳うラプソディに痴的に酔う。
しばしの宴でいつもの病的な狂態を晒すのも勝手だろう。

加藤周一の残した...いま、ここ、の問いでもある。

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2012年8月12日 (日)

魔物の正体

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オリンピックには魔物が棲む、という。
各国のアスリート達の魔物と対峙する姿を観るにつけ、魔物が棲むという魔界とやらがどうも気になる。
その魔界を一休さん、川端康成は「魔界入り難し」としてその問いを後世に残した。

川端康成はその「美しい日本と私」に道元禅師の詩を引用し、何れの日にか反論されるであろう覚悟を持ち、ノーベル賞授賞式で発表したがその後'vague'といって噛付いたのが大江健三郎だったことはよく知られている。

大江健三郎は「それは責任をぼかし、日本という、或は天皇という神秘的な空間の中に閉じこもる逃避的な態度」として鋭く批判したが本主旨は国会周辺における昨今の大規模な反原発、脱原発デモの通奏低音として流れていることに論をまたない。

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仏界/常識の世界を超えた魔界においてデカダンスとひきかえに、人間実存の極限、美の極限があらわれるという、それを川端康成は追い求めた。
個人、自己を取っ払い、身を捨ててこその覚悟で魔界に入る時、自他未分、自他以前の広大無限の世界が開かれる、それが川端康成にとって究極の日本であり、文人の美学の頂点だ、ということらしい。
(日本文化論の系譜/大久保喬樹著p,179より引用)

その点に対して三島 由紀夫は最大級の賛辞をおくっている、川端康成にとって自身/芸術家とはデカダンスとひきかえに、まさしく一休さんとシンクロしたように、魔界に入る人間である、として挑戦していたのだろうか。

ならば川端康成は魔界に入ったのか、あるいは入りきらなかったのだろうか?
こんな愚問がある限り愚生は再読せねばなるまい、何故なら20代に読んだそれらの著書にその問いすら存在しなかった。

宗教者、芸術家、アスリート達それぞれに魔界を思うとき、とくに試合後のアスリート達の大汗をかく形相の奥にもうひとつの魔界に対する覚悟がみえる。たとえば膝の靭帯を損傷しながらも激痛に耐えながら試合を続けたバトミントンの選手のように。

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ロンドンオリンピック2012の結果、もしもメダルの色、数のみを注視するのなら、後進国が大枚をはたいて製作した高性能のサイボークもどきに安っぽいナショナリズムをくすぐられ、ぬか喜びしているようなものにしか過ぎず、それはまた著書「みずうみ」で川端康成が銀平に託した究極の想いを読み取れない愚生の無学に似る。

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2012年7月16日 (月)

仏風呂には誰が入浴したか

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サイイド・クトゥプは一見、何処でも見かけるアラブの農家のオッサンといった風貌だがその著書/「道しるべ」は読んでいて不快感を禁じ得ない、特に以下の一行が気になる。

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「イスラムこそが救いだ、西洋諸国の他、イスラム世界の腐敗した体制を打倒することが神の道であり、正義の戦い/聖戦/ジハドなのだ、主権は人間にではなく神が持っている。」
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いみじくも加藤周一が指摘した仏教諸派間の矛盾と同じく、クトゥプがのたまうアッラーとはアラビア語で神のことらしく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教共々同じ人か物か知らないが同一の神様にもかかわらず、「信仰の方法に違いがあればジハドのターゲットとする」と自民族にすらその銃口を向ける教義だ。
この思想は麻原彰晃の立ち上げた教義とよく似、それを忠実に守り、実行したのが9・11の主犯とされるオサマ・ビンラディンといわれている。

日本人の仏信仰が長い歴史の中であまり熱すぎず、かといって消え去ることもなく続いてきたが明治新政府の御触れを受け、さほど抗することなく僧侶はシンボルであろう仏像を風呂の薪にした。
これを司馬遼太郎は自著の対談集にさりげなく、抑制的に、僧は’仏教風呂’だの、’仏風呂’だと言ったと書き残している。
文中には併せて宗教にほどほどの距離をおく日本人的心のあらわれともあるがこの愚ブログでその湯かげん、湯心地を僧に問うのは本意ではない。
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逆に論理不明な軍神なるものを山ほど創って神社に祀り、挙句には「生きて捕虜の辱めを受けるなー」のとんでもない一声で日本をぶっ壊す思想を生み出した。
その根本原理はどこかカビの生えた古箪笥からでも引っ張り出したのか’神の国だ、負っけるわけがない’、所謂、神州不滅とやらの結果的に国を滅ぼす国家イデオロギーが作為された。
ならばそこに神様がいることに越したことはない、そこで午睡を楽しんでいた大君を担ぎ出し、覚醒せぬ間に現人神に祀り上げたが、愚生は「天皇を神様に仕立てたのは誰なのか」、「天皇はどんな気持ちで神様役を演じだのか」等々の疑問はいまだに解けない。

この「道しるべ」、’オウムの教義’、および’神州不滅’のあまりにも幼稚で原理的な一方向的思想は強烈な不可逆的ともおもえるエネルギーを内在し、同時に人間の持つ同根の腐臭も放つが心象は妙に一致するところもある。
だが何故かオウムのみをカルトと言い表している。
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それを抑制出来るか否かが政治、メディアの成熟度だろうと声を大にして言いたくもなる。
例えば9:11の際、アメリカの国民、政治家、メディアのほぼ全てが報復を支持した結果、今の世界的経済不況を誘導しているがノンフィクションに若しもは禁じ手であるにしても、イラク侵攻に際し、滅私の心を持って’仏風呂’に入った優れた僧がいたように滅私の心を持った優れた政治家がいたなら今の歴史は完全に塗り替えられていただろうなんて夢物語を想像しても仕方がないがブッシュ、小泉、ブレアの迎合的な軽すぎる三人には荷が重すぎたことは歴史がなによりも証明している。

今日、16日の大規模な代々木、反原発集会が起こっても今の日本における大多数の政治家にみる反原発論が出てこない現象によく似ている。
国は疲弊し、既に衰退期に突入しているにもかかわらず、21世紀の新たな宿題に対して甘い香りを持つ旧ヴァージョン的手法にすがり、しかも次世代に対する無考察で場当たり的思考方法は末期のローマに限らず、今のギリシャに限らず、である。

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