2012年9月19日 (水)

ニヒルを演ずる

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一昨日、日本vsイスラエルのデビスカップ戦は見事なイスラエルの勝利で終えた。
なぜ国別対抗戦はときめくのか、あるひとは’ナショナリズム’の戦いという、ならば心情的には地域対抗の綱引き合戦と同類であろう。

その昔、ジョン・マッケンローがイワン・レンドルをチキン/chickenとこき下ろし、挙句にその語尾にはヘッドだの、ハートを付けた。なんとも酷い単語だが発する側にも同じチキンが蠢いていたことを観衆は見逃さず、それらを含めてゲームに酔いしれた。

中国では尖閣問題で右派がそれぞれに烏合し、いよいよチキンが賑やかに危ういショウタイムの始まりを告げた。
根っこにはもちろん’ナショナリズム’が潜む、それをときに民族主義と訳される、が愚生はそれを誤訳と考える。

ユーラシアの東端にある日本に住む日本人なるものは所詮人種の混成チーム、言い方を変えればその昔に韓、中からの移民が縄文人と交雑して出来た雑種/ハイブリット種である。またイスラエル人と称する人種もまた同じである。あえて取り上げることもないがイスラエル人には白人、黒人の他、少数だがイスラム出身のアラブ人も含んでいる。
それはdnaレベルでも証明されている。
従って今じゃピュアなdnaのみで構成される民族なんてありゃしないが国境という線引きでそれは一気にヒートアップする。
俺達のものを取った、盗られたと餓鬼の喧嘩の如く、だがこちらはクーリングダウンの方法を持ち合わせていない。

「近代日本のナショナリズム」/大澤真幸著には’ウルトラナショナリズム’と表現されている思想の持つ嗜好性、毒性、発生メカニズムを論考しているが特段目新しい論はない、そもそもそこに何がしの緩衝剤を期待する愚生の愚かさを改めて知らされるだけである。

所詮、’ナショナリズム’なんて食べ過ぎ注意と但し書きされた珍味程度のものでしかないが飲兵衛には必要かくべからずの代物でもある。
また猫にあってはマタタビのようなもの、酔い、ふら付き、知覚鈍麻の症状をほぼ正確に誘引するが閾値を越えると重大な結果を伴うのは言うまでもない。

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日本人たるものイデオロギー的ポジションは十人十色でいい。
「そんなもの、くれてやれ」の意見もあっていい。
ただ一点、団塊の世代の愚生には気になることがある。
メディアに流れる画像を是非、善悪、正邪を取り払って見ると彼の地のきっと一握りの若者を中心としたエネルギッシュなデモ、破壊行動は催涙ガスにまみれたかの10.21新宿騒乱事件を思い出すが、対照的に日本に住む若者の無批判、無行動ともみえる思考の根っこにニヒリスティックなものが宿るのだろうか。

ならば日本の若者らは各々真のニヒリズムと真摯に格闘したのか。
所詮、愚問だと叱られるにしても、ニヒルを演ずるにはそういう礼儀が必要であろう。

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2012年9月 2日 (日)

ある小児科医の目線

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「古事記」なるものを書いた人は朝鮮半島の国々、唐、天竺を知っていたのだろうがそれらの創造に一切触れていないのは妙な気もする。
また18世紀にオランダ製の世界地図が日本に入ってきても本居宣長の世界観は神代のそれから変わらず、日本が世界の中心であって、世界があってその一部分として日本があるとは考えなかったところがとってもおかしい。

一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団の領域を「ここ」として意識する。
そして「ここ」から世界を見るのであって世界秩序の全体からここ/日本をみるのではない。
村社会のこの千年にわたる原理的思考方法は莫大な授業料を支払っても21世紀に連綿と続いているらしい。

今、日本は韓大統領に徹底的に蔑まれている、韓国はどの為政者も政権末期になると目先の得点のためポピュリズムとナショナリズムを合体させる性癖があるようである。

今、日本は尖閣に上陸した、たくましくもあり何か欠落した中国系の右翼さん等に怒られる国家の態である。
自尊心を満面の笑みにただよわせ英雄として帰国した右翼さんと、同時に物悲しくて焦点の定まらない、加えてこちらも何か少し欠けている脂ぎった野田首相の画像は世界に網羅された華僑のメディアネットワークに「卑しい小日本」として徹底して流されている。
あるイギリス経済誌によると将来の日本の経済力はgdp比で韓国の半分になり、中国はいずれ世界一となる予想らしい。

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かならすしも「から心」と「やまと心」の二項対立とは思わない、が伊勢の松坂で小児科を開業していた本居宣長はそのお母さん達の心の深部に古より引き継がれている「やまと心」とやらを「古事記」までさかのぼって研究、考察し、後世に丸山眞男はそれを日本人の奥底に宿るものとして、また加藤周一は土着観として研究し、さらに大江健三郎はその毒性を主張しているのは前ブログに記した通りであろうか。

愚生の住む’村’から’日本国’まで日本人insiderと異人outsiderの区別、差別を必要とする思考を持ってして、例えばアウシュヴィッツ、南京虐殺という応用問題に対して前者は正対して解決し独仏の信頼関係は回復、本邦ではそれを’水に流した’。

’ムラの内側’、’ムラの境界’で生じる問題を’水に流す’先人の教えを美徳とするムラビト日本人、そして過去を水に流し続けた政治家に棲む旧ヴァーションの「やまと心」は悩ましいかぎりと思いつつ愚生にもしっかりと宿っている。

一方、お向かいの国々は反日といって謳うラプソディに痴的に酔う。
しばしの宴でいつもの病的な狂態を晒すのも勝手だろう。

加藤周一の残した...いま、ここ、の問いでもある。

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2012年7月16日 (月)

仏風呂には誰が入浴したか

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サイイド・クトゥプは一見、何処でも見かけるアラブの農家のオッサンといった風貌だがその著書/「道しるべ」は読んでいて不快感を禁じ得ない、特に以下の一行が気になる。

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「イスラムこそが救いだ、西洋諸国の他、イスラム世界の腐敗した体制を打倒することが神の道であり、正義の戦い/聖戦/ジハドなのだ、主権は人間にではなく神が持っている。」
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いみじくも加藤周一が指摘した仏教諸派間の矛盾と同じく、クトゥプがのたまうアッラーとはアラビア語で神のことらしく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教共々同じ人か物か知らないが同一の神様にもかかわらず、「信仰の方法に違いがあればジハドのターゲットとする」と自民族にすらその銃口を向ける教義だ。
この思想は麻原彰晃の立ち上げた教義とよく似、それを忠実に守り、実行したのが9・11の主犯とされるオサマ・ビンラディンといわれている。

日本人の仏信仰が長い歴史の中であまり熱すぎず、かといって消え去ることもなく続いてきたが明治新政府の御触れを受け、さほど抗することなく僧侶はシンボルであろう仏像を風呂の薪にした。
これを司馬遼太郎は自著の対談集にさりげなく、抑制的に、僧は’仏教風呂’だの、’仏風呂’だと言ったと書き残している。
文中には併せて宗教にほどほどの距離をおく日本人的心のあらわれともあるがこの愚ブログでその湯かげん、湯心地を僧に問うのは本意ではない。
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逆に論理不明な軍神なるものを山ほど創って神社に祀り、挙句には「生きて捕虜の辱めを受けるなー」のとんでもない一声で日本をぶっ壊す思想を生み出した。
その根本原理はどこかカビの生えた古箪笥からでも引っ張り出したのか’神の国だ、負っけるわけがない’、所謂、神州不滅とやらの結果的に国を滅ぼす国家イデオロギーが作為された。
ならばそこに神様がいることに越したことはない、そこで午睡を楽しんでいた大君を担ぎ出し、覚醒せぬ間に現人神に祀り上げたが、愚生は「天皇を神様に仕立てたのは誰なのか」、「天皇はどんな気持ちで神様役を演じだのか」等々の疑問はいまだに解けない。

この「道しるべ」、’オウムの教義’、および’神州不滅’のあまりにも幼稚で原理的な一方向的思想は強烈な不可逆的ともおもえるエネルギーを内在し、同時に人間の持つ同根の腐臭も放つが心象は妙に一致するところもある。
だが何故かオウムのみをカルトと言い表している。
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それを抑制出来るか否かが政治、メディアの成熟度だろうと声を大にして言いたくもなる。
例えば9:11の際、アメリカの国民、政治家、メディアのほぼ全てが報復を支持した結果、今の世界的経済不況を誘導しているがノンフィクションに若しもは禁じ手であるにしても、イラク侵攻に際し、滅私の心を持って’仏風呂’に入った優れた僧がいたように滅私の心を持った優れた政治家がいたなら今の歴史は完全に塗り替えられていただろうなんて夢物語を想像しても仕方がないがブッシュ、小泉、ブレアの迎合的な軽すぎる三人には荷が重すぎたことは歴史がなによりも証明している。

今日、16日の大規模な代々木、反原発集会が起こっても今の日本における大多数の政治家にみる反原発論が出てこない現象によく似ている。
国は疲弊し、既に衰退期に突入しているにもかかわらず、21世紀の新たな宿題に対して甘い香りを持つ旧ヴァージョン的手法にすがり、しかも次世代に対する無考察で場当たり的思考方法は末期のローマに限らず、今のギリシャに限らず、である。

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2012年6月10日 (日)

生理と病理の間で

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自然科学の世界では生理と病理の境界線はほぼ線引きできるが決して完全ではない、完全なる科学はない、そこを研究者等は真剣に探っている。
分野は異なるがその視点で再度、小沢一郎の所業を線引きするという。

加藤周一は講演集著、「語りおくこといくつか」の中で倫理は法律を内面化したものといい、倫理を外面化したのが法律といったが小沢一郎にとって倫理なんて所詮は浮き草の様なものだろう。

思いつくものに法律も倫理も無視する極右がいる。愚生は彼等の行動、思想を否定する。しかし変革期にしばしば登場し日本人の一部には静かな賛同者もいた、現在もいる。
だが今では胆のすわった輩もcastrationされたのか、自称民族派を名乗ってせいぜい拡声器の音量を少し上げたにしても、竹下vs皇民党の如く、小沢は貰い受けた時同様に低俗な輩の袖の下にお包みを差し入れfade-outするのかと馬鹿な想像をしてもしかたない。

また小沢一郎被告本人を含む全ての日本人の中で本当に小沢を無実だと信ずる人はたしているのだろうかなんて想像するのは止そう。

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では本当とは何か、真理とは何か。
芥川龍之介の『藪の中』で、そもそも本当はあるのか、なにが本当なのか、本当とは何だと問い、同じくピラトがキリストを捕まえて「この人はユダヤの王様で、我は真理であると言っているけど、真理とは何か」と問う。

等々人は昔から真理を追求してきた、しかし小沢一郎裁判の下した無罪判決をよくみると潜在している罪の非証明の証明に過ぎないが被告人席に戻された小沢一郎はそれをして真理とのたまい、そこから’国家に最後のご奉公’のフレーズを誘引している。
アイデンティティを政治というカオスの中に求め続けたあげく’国家に最後のご奉公’を錦の御旗にカオスの主演者となった男が自身の口から飛び出す空疎な社会正義とやらを唱える滑稽な生きざま、そしてその清濁などに愚生はもう興味ない。

政治哲学を欠いた小沢一郎が善者を演じ続け、逞しい保身術を御披露したところで人間存在の二重性が鼻につく、そもそも人間存在の二重性なんてありえないだろう、必ず疼痛がともなう。

その疼痛を避けるために山本七平さんは「目標としたこうありたい自分」と「結果としての自分」をつかみ出し、「自分に折り合いをつけろ」と残し、懐奘は師の賜った紫衣をその随聞記に残し、小林秀雄は後悔、自問、そして自答について鋭く説いている。

勿論、この難しい問いは形を変え愚生自身にも向けられている。

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2012年2月25日 (土)

グループ1984考/つづき

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グループ1984著、「日本の自殺」の主な項目は「日本没落の予感」、「ローマ帝国滅亡との類似」、「危機は日本人の中にある」、「豊かさの代償」、「現代文明がもたらす幼稚化」、「デマによる集団ヒステリー」、「戦後民主主義の弊害」等々である。
最後にあらゆる症候からして日本社会内部に強力な自壊作用のメカニズムが働いていること、このメカニズムを除去しえない限り日本は駄目になると明記している。

37年前に出された本論は見事に今を見越していた、まさに慧眼の極みとは本論のことを指すのかもしれない。
ならば近未来の国家像は仏眼にどのように映っているのか。ギリシャをはるかに超える可能性も秘め、あまりの惨状に仏はその眼を閉じているのかもしれない。

現代の若者像について山内昌之は「21世紀のパンとサーカスに抗して」と題した文中に、鍛錬やしつけを受けない若者が国際社会に雄飛できるはずもない。やがて若者は就職できない状況を嘆き社会にルサンチマンを感じ、政府に不満だけをぶつける存在に退化するであろうと述べている。
また石原慎太郎は田中慎弥著『共喰い」の芥川賞選評に寄せ「自我の衰弱」と題した中でこの国の自我の衰弱は最近の文学作品も同様で描かれる人間達のほとんどがちまちまとひ弱く、横並びの印象と述べている。

それやこれや政界を含め社会内部で起こっている症候は自壊作用のメカニズムが働いていると指摘する本論は一読に値する。

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思い起こせばバブル期、世界に流通するお金の30%近くを集め鼻高々だった日本人、アズナンバーワンと煽てられ、manhattanの不動産を手当たり次第に買い漁って顰蹙を買い、本邦では見境なくダムだ、道路だと公共事業とやらに湯水の如くお金を注ぎこんだ結果のなれの果てだろう。
それを良しとした多くの懲りない日本人は国家存亡の危機にもかかわらず、今もなお新幹線をもっと作れ、交付税をもっとよこせなどと悪平等主義を盾に、凄まじい個人エゴ、地域エゴを繰り返す心情はある意味で極道と一緒である。
こんなことが長続きすることはないと皆知りながらである、まさしく危機は日本人の中にある。

いにしえ人がこれだけは守れと残してくれた’足るを知る’を猫も杓子も忘れっちまい、魂の内側と社会の深部から幼稚化し腐敗しきっている。

それはいらないと誰一人言わず、あるに越したことはないと誰もが言う。論、湿、寒、貧の思想から質素、清貧を尊んだ日本人、このこころ模様は本来の日本人の姿では決してない。

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2012年2月22日 (水)

多喜二、世界に出る

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彼方へと飛び去った’プロレタリア’なる単語が一段と切れ味を増して再来、しかし愚生はそのカビ臭さを払拭できない。
昨夜の2012年2月21日、小樽商大主催「小林多喜二記念講演会~21世紀にどうよむか」と題されたシンポジュームが小樽市で開催、拝聴した。
小林多喜二著、蟹工船の出だしの有名なフレーズ「おい、地獄さ行(エ)ぐんだで」の一節からはじまる物語にファリエーロ・サーリス/イタリア、エヴァリン・オドリフランス、マグネ・トリング/ノルウェー、ジョルディ・ジョスティ&小野志津子夫妻/スペイン、ジェリコ・シプレス、 ヘザー・ポーウェン=ストライク、サミュエル・ベリー/アメリカらの優秀な日本文学翻訳家が集まり、それぞれが冒頭の数行を自国語で朗読させられていた。意味不明な舶来語を聴衆に強制的に聞かせても全く時間の無駄、それより翻訳家のあまり販売部数が伸びそうにない蟹工船にこだわる現代的意味を聞きたかった。

ステージ右横には多喜二の写真が飾られ、好みとはいえ意味深げに何故か真っ赤なバラだけが添えられていた。バラにはいろんな色があっていい。

講演者のシカゴ大学教授ノーマ・フィールド女史(Norma M Field)は自らのおばあさんが小樽出身の日本人だという。
昨年、ワシントンスクェア/nyで起こった’ウォール街を占拠せよ’を例に、デモ隊に対して棍棒を振り回す警官(アイリッシュ系の薄給と思われる/愚生注)の心模様は多喜二著、『1928年三月二十五日』の中で「警官の俺だって、本当のところは君等のやっている事がどんな事か位は、実はちぁんと分かっているんだが・・・」と既に警官に言わせていると語る。
また女史は「生命と生活の乖離を乗り越えるには』と題して、多喜二は命がけの運動を続けて絶命した。反・脱原発運動に触れて抗議すること、人権を主張することは贅沢なのだろうか、だとしたらその贅沢をもっと公正に分配するには・・・と現代日本の重い命題をきれいな日本語でさり気なく語るところがなんとも憎いではないか。
ノーマ・フィールド女史あっての多喜二でもあろう、日本人は決して女史を忘れてはならない。

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この『蟹工船』がこれから世界的に読破されるに至ってそこから主体的な行動がうまれるとは到底思えないがさりとて単なる’知識の肥やし’で終えるとも思えない、期待とともに冷めた眼でことの成り行きを見てみたい。

本講演は最後までイデオロギー、torture、社会的なヒエラルキーといった単語は飛び出さなかったがそれを痛いほど感じさせるスマートな講演であった。
しかしスマートと言ったところで時代に追従する論は掃いて捨てるほどあっても巨大な時代という大壁を飛び越える生き生きとした論には早々巡り合えるものではない。
なにより多くの論、著書は移り気な世間によってそのほとんどは消え去る宿命を持つ以上、北海道の田舎町より世界へと発つ多喜二の面目たるや如何に。

また、現代社会に対し文学は如何程の力になりえるのかという問いであり、優勝劣敗化した人間がまだ僅かに持ち合わせているであろう理性とやらへの問いかけとも聞こえた。

小樽商大もセクトを超えてたまにはよい事もする。

帰宅後、同席した我が奥方に感想をお伺いすると小樽のかまぼこ、買うのを忘れた、とだけのお答だった。

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2012年2月18日 (土)

グループ1984考

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海外の大きなコンベンションでは必ずと言っていいほど何処から見ても日本人と分かる一団がいる。他と交わらない、会議からアフター5まで然り、レストランでテーブルにディッシュが届いてもありがとうの一言すら発せず、時差も影響しているかほとんどの皆さんは仏頂面である。
まして学会長をつかまえて議論など殆んどないに等しいが帰国後、各々が所属する組織に提出される復命書を見せて頂くと立派な出来栄えだがこれも似通っている。
他人の目は異常なまでに気にする、しかし他人には興味を持たないというこの奇妙な二重構造は21世紀に至っても日本人のdnaに遺残し変異しそうにない。

自ら日本人というアイデンティティを取っ払ってその生態を眺めると実に興味深い。
それはまるで動物園のペンギンちゃんの行進然りある。
先頭に立つペンギンちゃんはただマニュアル通り直行するだけ、2羽以降は眠そうなおめめでぼんやりと無思考で追随するだけでおいしい餌にありつける。
それを観た来園者は可愛いだのとはしゃぎ、大喜びする。
毎日同じことを繰り返すペンギンの中には嫌気が差し、新世界にあこがれ列を離れるものもでてくる、それを不届きな奴として来園者はダメーとほざく。その行動にこそ大きな意味があることも知らないで。
内向き、同一行動、出しゃばらずを良しとする自閉的空間より生み出されたある種のねじれた思考をもってそれを美徳と勘違いしてペンギンちゃんに強要し、上手に出来たと拍手する不思議な日本人という図式であろう。

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匿名のグループ1984が書いた論文がそれぞれ論点を異にする朝日新聞1月版と文芸春秋三月特別号に再掲載されている。
「日本の自殺」と仰々しく題されいっけん、売れない作家によくある刺激的なタイトルのようにも思われるが実はそうではなく、中身は重い。
そもそもこの論文は1975年二月号の文芸春秋に掲載されたらしい。
ならば愚生は以前より毎月欠かさずに通読していたから間違いなく読んでいた筈である、しかし同著者のその他5,6編は記憶にあるが本論は全く憶えていない。
おそらく愚生は匿名の1984と名乗るグループが指摘している「高度に文明化した国家は将来、その繁栄の代償として歴史から消え去ることは必発、それを具体的にローマの’パンとサーカス’に喩え、その経過まで詳細に書かれている」ことを否定したに違いない。

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1975年とは連合赤軍事件も終え、世はまさにバブルに突入前夜である。
そんな時世にあたかも都落ちした傘貼り浪人的な発想から炙り出された保守的、内省的な退行論とでも軽く読み流したのかもしれない、或は’ふざけるな’などとお尻の青かった主役の大半はいきがったのかもしれない。

しかし本論を37年経った今再読した時、その論点が見事に的を射ている事に驚かされる。
繁栄とバブルの違いすら気付けず、国民全員が大いに浮かれた結果、次世代の生存プランすら決定的に欠いた間抜けな国家に成り下がる。
今頃になって慌てふためき、日本国家の消滅すら囁かれつつある現況を演出した中心にいたのがまさしく団塊の世代である。

愚生を含む団塊の世代のペンギンたる所以である。

                             つづく

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2011年12月 5日 (月)

ゼロ戦が飛んできた日

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確か1970年代だったのだろうか、アメリカ本土より帰国の途中オアフ島に寄り、カラカウワ通りに面したホテルで数日過ごした事がある。今そのホテルはマリオットと名称は変わったが当時はたしかリージェントホテルではなかったろうか。

当時、50歳代のある日系ルームメイドさんがベッドメーキングの際、西方のホノルル国際空港があるパールハーバー上空を指差し「三十数年前の12月7日、日曜日の朝、日本軍のゼロ戦がいっぱい飛んできました、湾に停泊していた船が沢山燃え、とても怖かったでした」と自らの目で見た真珠湾攻撃の惨状を英語混じりのたどたどしい日本語で説明して下さった事が今も心に残っている。

今思えば彼の地の日本人、日系人等がその後に蒙った被災に対して労わりの一言も発っしなかった同系の一人として恥ずべき事でもあった。

日米間で軍事的緊張の高まる1941年、日本の軍港より主力戦艦、空母の全てがいなくなった事、またハワイへ向かう日本の大艦隊をアメリカは知らなかったとする公式の見解を自海軍基地の甚大な損失からしてもこの先もきっと変えないだろう。

うすうす急襲を知りつつ、加えてdeclaration of warの遅れがremember the peal harborのフレーズを見事に作り上げたが稚拙な日本の政治手法を手玉に、嫌戦的国民に好戦的ナショナリズムを芽生えさすには充分過ぎる演出であった。

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今、アメリカをとやかく云うのではなく、勝算なき戦争に突進した往時の政治スタイルとisd条項すら認識していなかった現政権がtppを推し進めるその政治スタイルは余りにも似通っている。
往時の日本海軍、そして現政権も戦略的思考、技術が決定的に欠け、行動の殆んどがアメリカ政府の意のままに操られていることも共通している。
他に選択肢は多々あるにも関わらず、親米、保守がうたい文句の大半の松下政経塾出身者がデフォルトに向かいつつあるアメリカに対し、将来の吉凶が全く予想すら出来ない博打ち的手法を選択したことになる。

画像でしか知らない戦後の焼け野原の残像と、予想される薄ら寒い将来の仮想現実がダブって見えるのは愚生だけではあるまい。

それはtpp参加決定に対してではなく政治の恐ろしいほどの無能化、劣化でありその根っ子には今の政治家のあやふやな国家感が透けて見える故なのかもしれない。

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2011年7月17日 (日)

小林秀雄のいう常なるもの

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川端康成は問われ「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。なにを考え、なにを言い出すやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ解った例しがあったのか、観察にも鑑賞にも堪えない。そこに行くと死んでしまった人間は大したものだ。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは人間になりつつある、ある種の動物かな」と答えている。

若かりし頃の川端康成はなにも教条的な事を言っているのではない、しかしその生涯からしても大いなる矛盾を露呈したままの文豪の人生に愚生は明確な解答を持ち合せないがこのフレーズは名言である。

小林秀雄は「この世の無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは何時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物状態である。現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と述べているが(p67-70、モオツァルト・無常という事/小林秀雄著、新潮文庫より引用)正しく現在への遺言でもあろう。

ここで登場する’無常なるもの’と日本人のdnaに潜んでいる’無常’とやらは究極的には同根とも考えられるが、そもそも愚生の無常な頭内はその根本的な違いを納得するまで理解できうるほど進化はしていない、ましてその対極に恒常なる単語を引っ張り出してしまうとこの難解な文章は迷宮入りしてしまう。

だが小林秀雄は宣長のいったいろんな解釈を拒絶して動じないものだけが美しい一番強い思想であり、解釈だらけの現代には一番秘められた思想を‘常なるもの‘と表現しているにしても、その巨石のような’常なるものは’東北震災以降ぐらぐらと揺らいでいるのも事実であろう。

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キーワードは’ある種の動物‘であり‘見失った常なるもの‘にある。
鎌倉期の乱世に生きた人々は一言芳談抄の中で’いつわりてかんなぎ(巫)のまねをしたるなま女房’まで登場させ、今生に限らずともその平安を願ったが目先のご利益優先の為の屁理屈だけをのたまっている昨今の政治家、ジャーナリスト、御用学者等の多くはそれが自らを含む全ての消失につながる危険性をはらむ定理と知りつつ、矮小化しながら’ある種の動物’を安っぽく、そして痛々しく演じている。

それ以上に小林秀雄のいう’見失った常なるもの’は全くといってよいほどでてこない、鎌倉期同様、乱世の今こそ再考すべきではなかろうか。

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2011年5月 4日 (水)

何処に正義があるのか

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ソ連がイスラム圏であるアフガンに侵攻した時、ビンラディンはその異教徒を駆逐するため闘う。その背後でアメリカCIAはイスラム側につきビンラディンを援助しソ連と対峙した。
民族性もさることながらジハードの思想を持った戦士は勇敢なのだろう、ときにソ連兵士より切り取った頭部をサッカーボール代わりに戯れるアフガン兵士の画像を流し続けるとソ連兵士の士気はいっきに落ち込み、やがて退却、ソ連邦解体へと向かった。

2000年ny9,11テロでビンラディンは黒幕とされ10年後の今日、遂に射殺の報にオバマは「正義は行われた」とコメントし、続いてマンハッタン、グランド・ゼロでの馬鹿騒ぎが放映される。

しかしオバマは冗談を言ってはいけない、いったい何処に正義があるのか、正義の何たるかを理解しているのか、ビンラディンを殺す事と正義は関係あるのか。
そもそもビンラディンの様な怪物をつくったのはアメリカではなかったのか。
またabc newsにもOsama bin Laden Killed: 'Justice Is Done,'の活字がおどっていたがここにもアングロサクソンの思い上がり、そしてイスラムに対する露骨な上からの目線が鼻につく。

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愚生如きには1960-1970年代の永田洋子が思い起こされる。
過激なテロを用いたその手段はやがて支持を失うが一時期ヒーローと目され、ある時期多くの若者はシンパシーを感じた筈である。
オバマの露骨な選挙対策なのだろう、その得意げな表情、続いて映し出されたビンラディンの澄んだ眼、イスラムfundamentalistとしてイスラムに対する純粋な想い、そして既に忘れ去られてしまった永田洋子の往時のあまりにも稚拙な世界同時革命論など、それら三者に共通してある「大義」なるものが見え隠れしている。

為政者なるもの、せめて「正義」と時にころころ変わる「大義」はまったく違う事を自覚せねばなるまい。

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