2017年4月16日 (日)

フェイク&ポストトゥル-4

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まえからの続き
今更ながら、ウソの’強制連行された朝鮮人慰安婦’報道を流し続けた朝日新聞はいまだ反省なく、さらには韓国にプラスになる記事は大きく取り上げ、逆にマイナスになるような記事は小さく隅っこに少ない字数で書き連ねるか、他紙とは真逆にあえて無掲載にするといった、なんとも如何わしい紙面作りは韓国第一主義の表れと映る。
朝日新聞はなぜ、日本に赤っ恥をかかせ、韓国内の反日運動を露骨に応援してまで、韓国に助け舟を出すのか、なぜ異様なほど韓国に想いをはせるのか。

あの時、つまり慰安婦報道のウソをやっと認めて木村伊量が引責した時に、朝日新聞社は自らがreset出来ていたなら、などと考えるのは所詮は野暮だが、元朝日新聞社の尾崎秀実の行動は、あるいは今に何かを示唆しているかもしれない。

尾崎秀実は日本で共産主義革命を目論んだ。
そのやり方はミンスクの松林における大虐殺と同じく、日本と支那を徹底的に戦わせて疲弊させ、マルクス・レーニン主義を芽生えさせるという、そこに共通してある人命の犠牲、不幸、悲惨は感傷心に過ぎず、プロレタリア独裁の共産主義世界を実現する必要経費と見下す<前記の崩壊、朝日新聞/長谷川熙より引用>、凄まじい考えも見え隠れしている。
そしてその残虐性は1972年、共産主義国家の樹立を目指した赤軍派にみられ、さらにポルポト、そして毛沢東にもみられ、それぞれ数百万の屍を残した史実に朝日新聞は時に肯定的な見解を書き残している。
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それらideologue者らは、言葉を変えると世界の共産主義革命こそが理想社会をつくると目論み、ideologyの変換を謀ったのと同じく、今の朝日新聞社も同様にideologue者と勝手に自惚れ、安っぽい自己保身術も併せ持ち、詭弁を弄し、同時にフェイクを立派な武器としているようだ。

余談だが、上田閑照は自著、「私とは何か」の中でも問いているように、例えばidentityという単語の根っこにも、私とは、そして我々とは何者だ、の問いかけがある。
愚生は集団的identityを鼓舞する気はないが、identityがもしも他者との関係から発した単語だとするなら、この朝日新聞においては、まず日本に対するidentityの否定が深層に潜むように思えてならない。
もちろんそれをして単純な善悪論でかたずけてはいけないが、かつて愚生がそうであったように、朝日新聞の読者はあらかじめ朝日新聞がのたまうideologyという強毒性の抗原に対する抗体を有して読まなければ、簡単に感染させられてしまう危険性大であろう。
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また朝日新聞は他紙よりも暗にintelligenceの高さを標榜するも、ただ単に日韓にchaosを演出し続け、前記の先見性,深慮に決定的に欠け、まるで憂さ晴らしの低俗な週刊誌の如き、韓国の中央日報、朝鮮日報の2紙同様に、読むに値しないどころか、害悪ですらある。

今更ながら、朝日新聞は読んではいけないと思う。
同時にもしも日本が朝日新聞の思惑通りの国家になったなら、愚生は日本から飛び出すであろう。

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2017年3月 6日 (月)

フェイク&ポストトゥル-3

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まえのブログの続き
挙句に韓国では日本の首相を呼び捨てにするのは当たり前で、日本に対しては何を言っても、やっても構わないとする朝鮮人のむきだしの思考方式は、更に嘘で塗り固められた’強制された慰安婦’をして、毒気をはらむ’性の奴隷/sex slave’と変換し、世界中にばらまいた。
それで韓国人は自尊の念を抱き、何故か狂喜するといった、不可思議なリワード・デリュジョン/妄想的報酬によるところの稚拙な集団行動は、ポストトゥルの典型的な例にほかならない。
これでは日本の国粋主義者らの血が騒ぐのもうなずけるし、冷静な自制心をもつ日本人もすでに我慢の閾値を超えているのではないか。

また中央日報、朝鮮日報web日本語版の2紙ともに自国を一等国、先進国と自賛しているようだが、政治、経済、科学分野の記事には日本に対して恨み、やっかみが滲み出ているのは、隣人としても忍びない。
それは単に自国民へのストレス負荷に過ぎないのではないのか。

今、日本では国と国、民族と民族は平等と教わるが、韓国では反日を声高に叫ばないと国会議員になれないお国柄、同じく過激な反日記事を書き連ねないと売れない新聞等々、まるで時計を止めてしまうが如き、韓国のみっともない国体は目に余る。
逆にTHAAD/ミサイル防衛システム配置による、中国から受ける数々の屈辱、露骨な嫌がらせには、卑屈なまでにだんまりを決め込むという、なんとも正反対の国体も内在するといった、整合性を欠いた民族性をいったい、どのように理解すればよいのだろうか。
或いは諭吉が心を痛めたのも韓国人のこんな民族性にあったのでは、等と勘繰りたくもなる。

今頃になって韓国内では、慰安婦報道は’嘘だった’の認識も一部のまっとうな韓国人の間には芽生えつつあるようだが、もう片方には’国民情緒法’なる、法律もあるから、さらにこじれる。
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これもまた、実にたちが悪い。
信じられないことに韓国では、法律の決め事よりも、自国民の感情が優先されるという、自らの社会の根幹となる決定事項すらも、感情によっては否定しても構わないことを意味する。

ならば当然、問いが生ずる。
ある集団の中で意見が二分した時、声のデカイ奴か、態度の横柄な奴つが勝つに決まっていることは小学生にも分かることだが、いったい誰の感情をもって、誰が感情的に裁くというのか。

さらに韓国人の民族性として、時には理性の否定も平然とやってのけ、自民族意識にそぐわなければ、平気でウソをつく習い性も兼ね備えていることは、日本に指摘されるまえに、何より上記2紙の認めるところでもある。
韓国ではもしや、ウソも日常的感覚の中に組み込まれているのだろうか、いやはや中世より進化をお忘れのような、何ともおぞましい生態を晒している。

韓国人が自らに突き付けてしまった、理性と感情の問いでもあろうが、これから国家として存続しえるだけの智慧、冷静さはあるのか、加えて今後の軍部の動きは?

朝鮮人を揶揄する気は更にないが、南北朝鮮の更なる経済、政情不安による、もしや朝鮮人難民、密入国者らがまた、他人の国へ土足で上がり込んだり、無分別に大挙して押し寄せて、例えば東海大学の金慶珠とやらの如く、傲慢に何らはばかることなく、ケンカ腰で、朝鮮人にも参政権をよこせだの、税の免除だの、噴飯ものの利己主張をなされたなら、などとは考えたくもないことである。

ほどほど懲りてしまった日本人は今、失笑と諦め顔で傍観するが、病み、混乱する韓国は果たしてここから何が生まれ、何を失うのか。

続く

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2017年2月24日 (金)

フェイク&ポストトゥル-2

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まえのブログの続き
’強制連行された朝鮮人慰安婦’報道の真偽を客観的に論ずるのに、左右ideology、国家間など、それぞれの立つ位置で、見事に意見が区分されるのも、ちゃんちゃらもおかしい。薄っぺらな嘘と、安っぽい打算が入り混じって繰り返される日韓の慰安婦報道には程々嫌気がさす。

まず日本。
既に言い尽くされているが、あえて書く。
朝日新聞紙上の吉田清治による、全くのでたらめな慰安婦報道、加えて松井やよりの、ばれなければそれでよしとする大うそ、「女性国際戦犯法廷」の大いなる欺瞞、植村隆の朝鮮人慰安婦に対する滅茶苦茶な特ダネ報道等々、どれをみても、後世の史実に基づく客観的評価には到底、耐えられそうもない論陣を張っている。
朝日新聞の根っこにあるのは、或いは淘汰されずに遺残する、ばかばかしいほどのマルクス主義もどきなのか、そしてその為にはフェイク&ポストトゥルを用いて自国家をおとしいれても構わないと考えているのだろう。

今さらでもないが、秦郁彦はその著書「慰安婦と戦場の性/新潮選書」の中で、朝日新聞の大嘘を見抜き、さらに元朝日新聞記者の長谷川熙は、自著の中で、「思い込んだある観念から日本を裁き、反日連携まで海外と企て出す習癖は、その一点で尾崎秀実/おざき ほつみと松井やよりはうり二つ」と最大級の批判をしているのが目につく。<崩壊、朝日新聞/長谷川熙/p160より引用>
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一方、朝鮮である。
韓国の中央日報、朝鮮日報のweb日本語版には、日本語の識字力には脱帽するが、日本に対する、おどろおどろしい罵詈雑言で溢れかえっている。
それら論説委員らの資質、能力を問い質したりはしないが、あまりにも感情抑制を欠いた運筆である。
加えて上記、朝日新聞の吉田清治、植村隆の強制慰安婦報道はフェイクと薄々知りつつも、これを日本たたきの最大の武器として、よく飽きもせずに連日、畔のカエルの鳴くが如くに、謝れ、謝れの連呼である。

それで悦に入る韓国人の奇異な幼児的習性と、何かにつけ日本と比較して勝ったの、どうのと日和見的な活字を羅列する悪しき習いは、いまだ改められないようだ。

例えば、AI/人工知能と韓国人を比較しては失礼だが、AIは自らが学習することで性能を向上させるが、リワード・デリュジョン/妄想的報酬をAIに与えると、麻薬に陥るように中毒を起こし、誤った目的を追い求めてしまうらしい<山川宏/述>。

それと同じく、おそらく大多数の韓国人のいだく、’日本憎し’の渦中に、蜜の味のする妄想/delusionが投げ入れられると、集団狂騒とでもいうべき中毒症状がメディアと韓国人に表れる。

それで自分らが優位に立った気分になり、承認欲求が充たされ、reward/ご褒美にあずかるといった思考回路のようだ。

そんな韓国の、みっともない自己愛的集団のような、ばかばかしい行動・・・、これはたして日本人だけの視点なのか。

次に続く

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2017年2月17日 (金)

フェイク&ポストトゥル-1

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矢次一夫の暗躍した時代、そして執筆した諸々の本は確かに面白い、だが信用ならない。
時流を読み切る優れた能力をして、時々の政権中枢に寄生し蠢めいたが、もし自著がfiction or non-fic,かと問われたなら、返答に窮したに違いない。

世論工作のために知識人を貶めることなど、朝飯まえだったのだろう。例えば、西田幾多郎をして没後、戦争協力者に仕立て上げたのも、矢次一夫によるウソの記事だったことが後に判明するが、そこに愚かなことだが文化人と称する大宅壮一/猿取哲が登場し、軽薄にも勝ち馬に乗るが如くに、矢次一夫の悪意に満ちた記事を論証もせずに、「西田幾多郎の敗北」と題して、それ以上にねつ造した記事を出してしまったから、戦後のマルクス主義者らは、西田幾多郎排撃のキャンペーンを始めたらしい。

魅力的であり、難解でもある西田幾多郎の哲学を、愚生ごときが理解できたとは到底思っていない。果たして矢次一夫はその哲学をどのように読み、解釈したのか分からないが、時流に対して西田幾多郎の全人格の否定を伴う、ウソの記事をもって対峙さた。
後世の論証には耐えられそうにないウソでもって、哲学者をして戦争協力者に仕立てることに、いか程の意味を見いだしたのか、そして業績の否定にまで及んだのだろうか。
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上田高昭は、自著に「そのような叫びの裏には、従来の絶大な評価に対する、いわば偶像破壊の喜びを、感知する・・・」とまで記載している<上田高昭著/西田幾多郎の姿勢-戦争と知識人//中央大学出版部発行、p154,156,170,230より引用>。

余談だが、加藤周一すらも西田幾多郎をして戦争加担者と思っていたふしがあるようだが、今風に言えば悪質なプロパガンダであり、陰謀であり、フェイク/fake、つまりウソ、ねつ造、である。

さて世界は、フェイクニュース/fake newsで満ち溢れている。
手っ取り早い攻撃目標は、やはりトランプだが、攻撃された大統領も黙っちゃいない。
'any negative polls are fake news'と、丁々発止のやり合いが当たり前にあり、フェイクニュースサイトが立ち上がり、facebookで拡散し、広告収入が入るという、立派にビジネスが成り立つご時世のようだ。
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それ以上にたちの悪いのが、ポストトゥルー/post truth。
その’意’は客観的な史実そのものより個人の信条、民族的な感情へと訴えたほうが政治的に影響力もあり、世論が形成されやすく、都合のいいものだけを短絡的に妄信させる手法らしい。
為政者にとって、こんな便利で都合のよいツールはない。信長、秀吉、家康どころかww2でも立派な戦術の一つとしてポストトゥルーは用いられたようだが、今’それをやったらおしまいよ’といわれる禁じ手である。

そんな卑怯な手法は21世紀にはないと思っていたら、韓国にある。
例の朝日新聞が行った、典型的なfake報道である’強制連行された朝鮮人慰安婦’をして、韓国ではポストトゥルー/post-truthの格好の餌食とした。
もしも本当に、韓国人が声高に云うところの、朝鮮人女性を強制連行して、無理やり慰安婦にしたのであれば、それは大変な犯罪であり、それこそ日本国内でも批判の声は大きく上がるはずである。

だが実際は日本だけでなく、当事国である韓国内でも’強制連行された朝鮮人慰安婦’などいないことは、常識人であれば皆、知っていることでもある。

韓国という国の裏には、こんなわざとらしいウソを引っ張り出して、ポストトゥルーをやってのける、なんとも悪質な性向も潜むようだ。さらにはもっともらしくニセの慰安婦まで登場させ、挙句に集団ヒステリーに陥る韓国人の民度の低さは目に余る。

ことの本質は国家間の問題ではなく、左右イデオロギー問題でもなく、ましてや人道の問題でもない。

次に続く

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2017年1月11日 (水)

バクチ打ち

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歎異抄より、
「たとひ法然聖人にすかされ まひらせて 念仏して地獄へおちたりとも さらに後悔すべからず」(第二節)の有名な句では、信仰が一種の’賭け’になっている。
信仰しても救いがあるかどうかわからないけれど、もし救いがあるとすればそれしか方法がないから、親鸞はそれに’賭ける’ということらしい。<語りおくこといくつか/加藤周一著/かもがわ出版/p128-129より引用>

また善信坊は法然を理由なしに信ずることができた。
逆に人間に対して、証拠を求め、理由を求め、保証を求めるならば、その人間に対する疑惑は尽きない。
証拠がなく、理由がなく、保証がなくても信ずるのは、だまされる覚悟をするのと同じことだ。だまされぬ為には、信じない他はない、信じなければ人格と、人格の接触はおこらない。
つまるところ人間関係もまた二者撰一、それは理性的にはありえないから一種の’賭け’である。<現代日本文學大系82/筑摩書房発行/加藤周一、中村眞一郎、福永武彦蓮著/p166より引用>
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遠くフランスのパスカルはパンセの中で、これも有名なpari/賭けという単語を用いて、明快に説いている。
神はいる、に’賭け’れば死後、神に高く評価され天国決定かもしれない、つまり天国行チケットの確率は50%。
逆に神はいない、に’賭け’れば、そして神がいなければ、天国も地獄もないけれど、もしも神がいれば怒られて地獄に落とされ、天国行チケットの確率は0%。
だからパスカルは神を信ずるというのがパスカルのpari。<世界の名著29、パスカル/責任編集、前田陽一/中央公論社出版>

人間として、どうしても知りたいことがありながらも、なんとしても分からない時、’賭け’に出るよりしようがないという、追い詰められた人間のぎりぎりの選択、よって戦争になり、徴兵されるとフランスの若い兵士の間ではパスカルが読まれるらしい。
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これら親鸞の歎異抄における’賭け’及び、法然に対する’賭け’、そしてパスカルのいう、pariの共通点をして、加藤周一はそれこそが宗教的な思想のいちばん深いところにあるものでは、と重く残してくれた。

加藤周一によるところの、まさに’賭け’から、不条理なるが故に我信ず/credo quia absurdumという格言を誘引するに至る、論旨を煮詰める手法は実にお見事であり、読者をいまだに唸らせ続ける。

だが巷には、同じ’賭け’をして、あたかも政治的ideologyの対立の如きに、何故か保守主義者だけが経済発展の為とうそぶく、からっ風が舞うのもまた、日本的原風景でもある。

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2016年10月28日 (金)

ボブ・ディランの悩み

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ボブ・ディラン/bob dylanのノーベル賞受賞といえば、ある種の神格化されたイメージが付きまとう。
古代ギリシャ、ホメロスの詩と、ボブ・ディランの歌詞は同格と言う人もおり、一時期ボブ・ディランはその名声をうまく利用し、金にはなったがやがて独り歩きを始め、中身は空っぽになり、名声は人生だけではなく、作品もゆがめたことを知る。
また、「昔の私は世界と人間のあらゆる真実を歌で表現しようとしていたが、時が来れば、できっこないと分かるものだ」とも言い、その半生は自分を自分に説明するために彼が張り巡らした神話の集積だった(以上、デビット・ゲーツのボブ・ディランのノーベル賞受賞に関する論評をニューズウィーク日本語版/2016/10/25号,p24-27から引用)。
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一方、ミュージシャンであって詩人ではないディランの歌詞は音楽なしでは物足りず、後代に向けて訴えてきたことは、村上春樹やフィリップ・ロスの物語よりも壮大かもしれないが、文学という定義にも反している。文学とは静かに自分に向けて読むものであり、静寂と孤独は読書と不可分の関係にあり、読書こそが文学に向かう唯一の道である。さらに哀れな知識人はしばらく世界の重要性について考えているふりをするが、その間に大切な何かが失われていく(スティーブン・メトカフのボブ・ディランのノーベル賞受賞に関する論評を同じく、ニューズウィーク日本語版2016/10/25号,p16より引用)。

等々、異見をならべてみたが愚生はボブ・ディラン自身にとってノーベル賞は不必要なものなのか、或いは害悪とでも思っているのか、なんてことはどうでもよろしい。

余談だが一点、ボブ・ディランのいう’人間のあらゆる真実’、この西洋で言うところの’真実’とはいったい何か。ついでに移り行く多様な’事実’はどのように位置付されているのか、そしてどのように削除されているのか、facts & truthの齟齬にこそ文学の旨味を実感する愚生には、ボブ・ディランのきれい過ぎるとも思える思考に異臭を嗅ぎ、エネルギッシュな60年代の、学生運動華やかしけり一時代に聴いた歌も、21世紀の今にいたっては、なんとなく窮屈感も伴って聴こえてしまうのは愚生だけだろうか。

話が過ぎた、’真実’にもどる。
東洋に住む愚生にとって、例えば親鸞のいうところの仏性につながる’真実’、例えば「如来は 即ち これ真実なり」の言葉の中に、なにか心にすとんと納まる響きがある。

さらに一遍さんなら、一切そんなもの、東西のsectionalizeされた思考法なるものも含めて’捨てっちまいな’と言うのだろう・・にしても、しょせん無手勝流で大根を切ったそれぞれの切り口を診るが如きで、例えそれが名刀であれ、錆刀であれ、同じ形はあろうはずもない。

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2016年8月22日 (月)

「日本会議」解体論

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トンボに限らず、チョウチョに限らずとも、左右両翼のバランスが崩れると不安定となる、そして政治も。
今更言うまでもないことだがその昔、政治に国家主義的イデオロギーが加わり、極端な右旋回の末、世界大戦に突進し、全てを失ってしまった。

明治政府は南方熊楠らの反対にもかかわらず、神社の統廃合を強行し、付け焼き刃的に午睡を楽しんでいた天皇を引っ張り出してトップにすえ、ニューヴァージョンの国家神道と呼ばれる、どこの誰がイデオローグなのか、理解困難な宗教もどきを作った。
愚生はこんな国家神道に嫌悪感を抱くが、ようは国家が自らに都合よく創作した、胡散臭い宗教と、国粋主義者が積極的にコラボレーションを行い、絞り出された珍説が例の’神の国だ、負けるわけがない’という、あまりにも稚拙で、能天気な強がりだった。
それを喧伝したのがいわゆる朕思うに・・・で始まる教育勅語で、やがて軍参謀は自惚れ、舞い上がった。
こんなバカバカしさの中から、ファシズムは生まれた。

往時、日本を神の国と信じていた国民は80%以上とも云われ、現在でも50%は信じているとの数値をどのように見るか。
真顔で神州不滅を謳った軍参謀の無教養と情けないカルト的思考回路、加えて無知が生み出す残酷な結果をして、マッカーサーが日本人を12歳と言ったのは至言であろう。
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改めて書くことでもないが英単語のfar、radical,extreme,ultraを-rightの接頭語として用いて、極右と言い表す。今、abc,cnn、ル・モンドらが、日本の見えづらいところでうごめく、日本最大の極右団体/far-right partyである、「日本会議」を取り上げ、そこに内在する国家神道と国粋主義がもつ危険性に対して、盛んに警笛を鳴らしている。
だが日本の大半のメディアは不思議なことに「日本会議」を取り上げない異常性、そこにこそ危険性をはらむ。

何故こんな最重要な問題を報道しないのか、理由はなにか。

だが日本は汚染された大手メディアばかりではない、真っ当なジャーナリストもいる。
例えば山崎雅弘、青木里、菅野完、上杉聰らは「日本会議」について取材拒否されながらも内在する、強い病毒性を記している。
それぞれを一読すると、驚きを隠せない。
この時代に、よくもまあ時計の針を逆回転させて明治に復古的な、しかも神社本庁、一部の仏教団体も組しているというから、バカバカしいというより呆れる。
日本人たるもの、これら書を急いで読むべきであろう。

愚生の読後感は、「日本会議」はカルト集団そのもの、だが与野党を問わず保守系議員の相当数が賛意を表しているところに、国会議員のいやらしさと、薄気味悪さを診る。
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空疎なことだが、山口二矢のテロリズムを三島由紀夫は賞賛し、そのことを石原慎太郎は売りにしているばからしい構図は、いつの世にも寄生虫のような極右は少数ながら駆虫されずに一定数が棲むことを示す。
だが寄生虫は増殖しすぎると宿主は衰弱し、生息環境が良いと過飽和になり、やがて宿主共々絶えることは生物の常であり、戦史のメインテーマの一つでもあった。

余談だが、8月8日の天皇の生前退位のお言葉は、「日本会議」に向けたものと解釈もできる。
日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ云々と、象徴天皇としての永続を願う重い言説を多くの日本人は然りと聞き、その日本発のビックニュースは速報で世界に流れた。

まっとうな日本人は「日本会議」を時代のあだ花と診るか、狂気と診るのかはそれぞれにしろ、「日本会議」が天皇を国家元首と目論むのは笑止に過ぎない。

宮城に遥拝を欠かさないとのたまう輩らは、そのお言葉を神の声と聴いた筈である。
ならば天皇を本当に敬っているのか、それとも天皇を小馬鹿にして操るつもりなのか、「日本会議」のこれからの言動を国民は注視しているのをお忘れなく。

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2016年7月24日 (日)

不寛容論

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日蓮は遂にたどり着いた法華経をして他の信仰を断じて許さず、道元禅師は浄土信仰を嘲笑った。
それはもしかして上田閑照のいうところの既成宗教の自らの信じるものの相対化ができないためなのか、それとも相対化など不必要だったのか理解できないが、不寛容とも思える問いを後世に残した。
また18世紀、冤罪であるカトリックへの改宗を怒ったプロテスタントの仕業をカラス事件として、宗教のもつ慈愛、野蛮性に果敢に挑んだヴォルテール/Voltaireは’寛容論’として冊子にまとめている。(斎藤悦則訳、光文社出版)

狂信に対する理性の力を説いた’寛容論’、その原義である、’tolerance’の単語には、’我慢できうる許容範囲’の意味も暗黙のうちに含まれている。
テロ以降、地元フランスでもその本は盛んに読まているらしいが、’私はシャルリーではない’に対して’私はシャルリー’を謳う拮抗したイデオロギーは是即ち、tolerance vs in toleranceであり、日本のマスコミはなぜか、こぞって前者を取り上げているようだが、ヴォルテールの美文にあるような、純粋に析出された寛容にはおのずから限界もみえる。

ヴォルテールの説くtoleranceの中身、ようは理性の閾値は、当然ながら彼自身も使い分けに苦心しているようにも見えた。

例えばなんの断りもなく、土足でよその国に入り込み、やれ無税にしろだの、やれ選挙権をよこせだのと、大声で主張する異端が、恣意的にすがり、時に策略的に担ぎ出すのも’寛容論’であろうか。
ヤジロ兵衛のごとく、寛容を謳う側、謳われる側とそれぞれにまっとうな理性、まっとうな感性が伴わないと窮屈になるのはフランスに限らない。
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今でも加藤周一のいう、村社会の遺影である大勢順応主義、水に流す、無責任思考がはびこる日本において、例えば坂口安吾ならば平気で、’不寛容論’とでもして著し、日本の底に濁る、ヘドロの如き自閉的な思考回路に挑んだに違いない、等といったなら冗談が過ぎるか。

生きる術としても不寛容が当たり前の中世で起こった残虐なカラス事件の、理性の閾値はゼロ、zero-tolerance/ゼロトレランス。
そうだ、どこかで聞いた単語だ。今、日本に限らず、世界中どこにでも顔を出しはじめ、21世紀にうごめいている。
ヒットラーは不寛容をおおいに利用し、共和党のトランプは不寛容を売りにしているが、逆にヴォルテールはゼロトレランスから閾値を上げようとした。

時代は進んでいる、だが理性は進化しているのか、していないのか、閾値は上昇しているのか、下降しているのか。
それとも理性は時代とともにパラレルに動くというのは幻想にすぎないのか。

ならば理性って何なのか。

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2016年2月27日 (土)

一遍の見えず見もせず

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長楽寺山麓の眼下には祇園が見える。
そこに見え隠れするド派手な色はフェロモンを放ち、花に柳に三味の音に引き寄せられ、あらゆるhierarchyの民が足繁く通った、それがあたかも義務であるかのように。
勿論、坊主も是非の愚問は棄て、カツラ着用で足しげく通う。
それでも是れ即ち空っぽだの、やれ無だの、なんたらと好き勝手にのたまおうが、愚生の知った事ではない。

13世紀の思想家たちのfundamentalな思考は、downgradeさせられ、経年劣化を繰り返し、得度、剃髪した聖職者を自認する輩の多くは、聖と俗の境にある是非の問いを消去して今に至る。

たとえば坊主は思考の技術として、色即是空と宣う。
6世紀なら色はない、色は空っぽ、無色etcと諳んじたところで何某の木戸銭は得られたかもしれないが21世紀に於いて、網膜の細胞に映る3Dカラーを指して同じく諳んじたところで、はたしてどんな色を指すのか。色はいろいろであるなら、時空に固定した色か、黒も白も独一にして単純なのか、さては特定の色を指すのか、全ての色を指すのか、此れらは即ち、’無色’なのか、色は現成してそれぞれが調和しているとでも解釈すべきなのか。
このような珍問、奇問に一遍は、答える。

「いまははや 見えず見もせず 色はいろ いろなるいろぞ 色はいろなり」と。

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だが愚生には、これがまったく理解できない。
能力の限界を知らされるが、たとえば最終章の切り口を朝日に消えるなごり雪に喩えて、スマートに、しかも深く諳んじた芭蕉がいて、もう片方にはそれさえも捨てる、或いは捨ってちまうことができる、凄まじい一遍がいてこそ、思考の異味を教えられる。

繰り返すが一遍のいう、「いろなるいろぞ 色はいろなり」は、棄ててこそ見えないものが見え、聞こえないものが聞こえると、答案用紙に書き込めば百点満点の優等生にしても、俗悪な愚生にそんな解釈は所詮、出来っこない。

人生の優等生なんて、さらに興味はないにしても、’一遍さんのいう色’、苦悶したであろう’いろなり’となぞる行間に沈殿しているモノ、もしかしてそれこそが宝モノかもしれない。

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2016年1月28日 (木)

一遍のダンディズム

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更に一遍は入滅直前、「我が化導は一期ばかりぞ」と、自らの経典を含む全てを焼き払い、血縁を絶ち、自らの思想も後の世に一切残さないという徹底ぶりには驚かされるが、<日本の仏教、四、鎌倉仏教/新潮社/三山進著、p74より引用>これこそが、まさに一遍の神髄でもあろう。

だが一遍のonly oneの思想は、後継者として次世代の遊行上人となった、’真教’という坊主によって消去されず、ヴァージョンアップもされずに踏襲され、やがて同朋衆だの、時宗と呼ばれる教団が成立したというから、愚生にはこれほど矛盾を抱えた教えが21世紀に残るのも不可解である。

こんな一遍の主張する、’捨ててこそ’の極意と、大いなる矛盾に想いを巡らせながら、早朝、京都は東山の長楽寺に続く坂を上がる。
参道の途中、まず親鸞聖人の御廟といわれる大谷祖廟が目に入る。その立派な山門をくぐると広大な寺地は、落ち葉の一枚も残さずに掃き清められ、格式が高い、豪華な寺社が建つ。
そこを引き返し、さらに急な石段を奥へ進むと、まもなく目的の長楽寺境内に入る。
そこはまさに時間が止まってしまったような、古色蒼然たる世界が展開し、濡れ落ち葉を踏みながらさらに進むと、平家の滅亡史が刻まれ、室町期の風情と共に、維新という血の動乱期の残像が、手付かずの森の中にある。
・・・
約800年前、殺し、餓死、略奪、疫病は当たり前の時代に、法然の高弟に師事した一遍、そして法然に直接師事した親鸞と同門のよしみながらも、前者はlet's dancingから遂にたどり着いた知識帰命という思想を、後者は高度な理論武装で易く往生を説いた、それぞれ二人の思想家の天才的な技術、流儀の違いを想う。
かの時代の思想家は、此岸から彼岸へ向かうのに、その手法、技術を真剣に考えたらしい。日本古来の伝統的な世界観から脱却すべく、遂に出現した超越的な浄土思想はなにやらイズラムの教えにも似る。
娑婆の向こう岸に浄土という仮想空間を設定し、両岸を分ける水の河(貪欲)と火の河(瞋怒)を流し、更には一筋の白道(清浄心)を架け、そこに立つ釈迦に説かれて、一心に進めば阿弥陀のいるピカピカの極楽に間違いなく行ますよ、とする教説と同じく、彼の国では、誰が言い出しっぺなのか知った事ではないが、爆弾を体に巻きつけてハーレムに向かう思考法に違いはあるのだろうか。

余談が過ぎた、本論に戻す。
一遍の生き様は後の、円空に通ずるも、一遍は捨ててこそ成り立ち、’真教’は拾ってこそ成り立った。
この両者の相対する思考の技術は当然、根源的問いを抱える。

なぜ、一遍は熱狂的であり刹那的な、独創性lに富む体現法、思考法をあえて残そうとしなかったのか。もしやして思考法を残さないという思考は、生理を越えて病理的領域に浸っていやしないか。

なぜ’真教’は大いなる苦悩、葛藤を抱えながらも、師である一遍のdandyismを否定し、トップランナーに仕立て上げたのか。

そんなくだらないことをブツブツ言いながら一人、東山の坂を下る。

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