2017年8月20日 (日)

下手のソイ釣り

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その昔と言っても明治の初めに、イギリスは田舎のヨークシャー出のおばちゃん、この旅好きの通称バード/イザベラ・バード/isabella birdが函館到着後、森町から25mileをフェリーで室蘭に入り、ドサンコの背にまたがり、時に渡渉と難儀しながら平取のアイヌ部落を目指した珍道中記は今でも面白い。
この名著の誉れ高い、『日本奥地紀行,unbeaten tracks in j,』の中に記載されているように、バードおばちゃんは白老から眺めた樽前山がいたく気に入ったようで、旅好きの自らが過去に見た海外の山々と比べて、その絶景を美文で称えている。
そんな樽前山を、太平洋上より眺めながら釣り糸を垂れ、至福の一時を過ごす。

時にうとうとしながら、小さなカレイ釣りを楽しんでいたところ、やけに重量感のある手ごたえが釣り竿に伝わり、瞬時にして睡魔は吹っ飛ぶ。
釣り師の最高の瞬間を楽しみつつゆっくりと巻き上げると、立派な魚体で初見の、薄黄色いお魚さんがタモ網に入った。

釣り師と目を合わせたこのお魚さんは、さぞかしトンマな奴に釣られたと後悔したに違いないが、悲壮感など更になく、野武士を思わせる面構えは、威風堂々として怒気鋭く、鋭い歯に加えて、体表に数条の黒い縞模様を入れたファッションセンスを見ても、こやつの美学はなかなかのものである。
お名前は、漁師用語で’キゾイ’と教わる。

だが不思議なことがひとつ。
タモ網の中で暴れるキゾイには釣り針が口の中どころか、他のどこにも引っ掛っておらず、しかもオモリが見当たらない。よくよく見るに、なんとナス型で80号の赤いオモリを咽頭部奥までしっかりと飲み込んでおり、引き抜こうにも簡単ではなかった。

なんと、400円のオモリでソイが釣れちゃった。

帰宅後にキゾイの胃内を見ると、小さなカニだの、貝殻、ヒトデだけで満たされており、小魚などは見当たらない。他にもっとマシな餌はあるだろうに、釣り針の餌の美味しそうなイソメすら無視して、オモリに喰いつくキゾイの捕食行動は、はたして偶然なのか、必然なのか。
余談だが生物界に「偶然」など、あるわけがないと考えてはいけない。
あるいは人たる生物は、これからも生き残るのは必然と考えてはいけない。
生物は、乱暴な言い方をするならdnaのコピペのミスから始まり、その時と場所で生死を懸けた応用問題が次々と課せられた。知られるように多くの生物は不解答で即絶滅したものと、逆にdnaの変異を武器として正解を得、奇跡的に生き残った現在の少数の生物と二つに分けられるが、人をして将来も生存は当たり前、必然だと考えるのはせいぜいアメリカのトランプ大統領くらいのものだろう。
さて未熟な釣り師だが、単に「偶然性」の一文字でかたづけてしまっては、キゾイに申し訳ない。そこにはしたたかな生き残り戦略、つまり習い性という「必然性」もあるに違いない。
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勝手気ままな戯言はここまでだが、人もお魚さんに劣らず妙な生き物で、「偶然」にこだわった哲学者が知る限り、ひとりいる。
九鬼周造がまず「偶然性の問題」と題して、ひとつの答えと言うよりはむしろ、考え方を示し、後の書には思考に経年的な変遷があるのもまた、見逃せない。

九鬼周造によれば、今更、要旨を書くまでもないが、「必然」の本質が同一性に、「偶然」の本質は同一性が破られたあとの二元性にあると考える。あの有名な定言的、仮説的、離接的という三つの視点から「偶然性」、「必然性」を分かりやすく説いている。ところが二元性を生み出すものは「無」であるというから、愚生如きには難解である。
九鬼周造の説く「無」とは、絶えず世界に裂け目をもたらす運動であると単純に、しかも文字通りに解釈しえたとしても、一見さんの愚生は門前払いされ、その深奥に入り込めない。
本書を読み解くには、つまり九鬼周造を知るには、九鬼周造の「無」を理解しなければ、受け入れられない憎さもある。

また盟友であった西田幾多郎の、さらには禅坊主ののたまう「無」とも異なり、また一遍さん、道元禅師然りで、それぞれがそれぞれの「無」を含意している。
例えば三木清の「虚無」にしろ、西田幾多郎の「絶対無」にしろ、「無」なるものをそれぞれが、名刀か、あるいは錆刀か知ったことではないが、ぶった切ったそれぞれの切り口を利けという。

日本人たるもの、せめて「無」なるもの、くらいは理解しなければなるまいが愚生如きには、一生の問いでもある。

九鬼周造は続いて、明治以前の日本人をして「自然」と言う単語は山川草木を表すものではなく、「自然に」などと動詞につながる、副詞的な使い方がされていたと述べる。
つまりは「おのずから」などとする、伝統的な「自然」観を、西洋近代の「自由」と比較する。
ここで自由とは「必然」から解放されるとするのが一般論だが、それは「恣意」であり、結局人間は「因果的必然」に支配されることにあると、論破している。
そして「日本的性格」論に至っては、「偶然性」のままに生きる「自然」と、「目的的必然」に服従するという意味での西洋的「自由」とが、日本では融合しているという。
つまり九鬼周造の「偶然性の問題」、「いきの構造」から「日本的性格」に至って、「偶然性」、「必然性」の融合に至ると言うが、またまた能力の限界を知らされる。
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さて、キゾイとオモリの関係性を、飛躍して九鬼周造と祇園の芸者との関係性になぞらえたところで、核心であろう「無」はもちろん理解しえないが、無知なるが故の、的はずれな問いも生ずる。
例えば21世紀的手法のひとつの、主を排した客観、例えばそこに科学を持ち込み、もし数次の危険率のもとで統計学的有意性の有無を突き付けたなら、さらにはパスカルのパンセの中でも有名な、pari/賭けという概念、確率論を突き付けたなら意地悪が過ぎるにしても、21世紀とはこんな九鬼周造の感性に似合う、うま味、色気を消し去る時代なのかもしれない。

さらに九鬼周造といえば、上記の祇園、芸者のほかに、京都帝大、天心をイメージしてしまう愚生だが、明治に海外に発ち、想定外の出来事、出会い、つまり偶然性にこそ人の世を見た九鬼周造は、例えばsnsなどで同好、同志だけが集まり、同趣味を楽しみ、それを拡散させるのを避けるといった、ある意味で鎖国趣味的で退屈な、ばかばかしいほどに必然性を求める今生に、なにを想うか。

必然は、やはり因果であり、恣意なのか、そこにあるのは自由なのか、あるいはそうでないのか?

そろそろ下手の釣り論にもどろう。
昨今のAIを駆使し、徹底して必然性を求めるご時世をして、それを文明の発展とうそぶく世知辛い娑婆に成り下がったとしても、船の上は別世界だ。

ならば今度は、inductiveにそれを証明してみようではないか。
のほほんと、真っ赤なオモリだけで釣りをしてみるか。

生物が醸し出す愉快な面白さと我を忘れて遊ぶ楽しさにこそ、釣りの本当の面白さが詰まっているのに、また愚問に終始してしまった。

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2016年11月 4日 (金)

知床、ウトロでカレイ釣り

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カレイ釣りの前日に、餌は「ホタテ貝の耳」を用意するから餌は必要ない、’もってくるな’と船長直々の厳命を拝受、本日まだ暗い中、知床はウトロ漁港より愚生一人を乗せた釣り船が出港する。
釣り場に到着して朝ぼらけの中、船長より差し出された「ホタテ貝の耳」なる初見の餌は半氷状態のポリ容器に入っており、取り出して釣り針に付けようとするが上手く付けられない。
慣れているはずの船長も何やら、かなり悪戦苦闘している様子だが、なんとか針に餌を付け、仕掛けを落とし込む。愚生も遅れて、こんなもんかと釣り針に餌を付け、釣りをはじめる。
やがて東方、知床半島先端辺りの水平線がくっきりと表れ、終秋の寂光にしばし見とれる中、周りの釣り船の無線情報では釣れているらしいが、こちらの釣り船に魚信なく、小一時間も経過する頃に船長は外道のデカいタコを釣り上げる。
だが愚生はまったく釣れず、巻き上げて餌を見ると「ホタテ貝の耳」なる餌のシッポに、カレイの歯型がくっきり残っているのに心騒ぐ。
そして夜が明け、釣れない原因が腕だけではないことが判明する。
船長が冷蔵庫から取り出してきたという、その餌をよく見ると、なんと薄くきざまれたタケノコであった。さっそく船長は携帯電話を取り出して奥方様へ、まるで人格が入れ替わったように平身低頭の態、普段の厳ついお顔が、そして先程まで釣り客に命令調だった漁師特有の、語気の荒いお言葉が人前にもかかわらす、妙に優しく激変する様子を観察する。
さては’かかあ天下’なのか、などと邪推はすまい、どうやら、お内儀様に怒られる怖さゆえなのか、釣り客にタケノコを餌にして釣りをさせた罪悪感など微塵もないらしい。
寒漁村に生まれ、オホーツクの荒海に体を張って生きてきた善良で朴訥な船頭なのか、’他者に謝る’ということなど、はなっから存在しない生き様とお見受けする。
だが海より怖いものをわきまえている、それでよろしい。

以上、一時間足らずの知床釣行であった。

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その後一人、朝っぱらから一番風呂に浸かり、至福の時を過ごす。
岩尾別温泉の露天風呂にて、背に眼下の渓流より吹き上がる寒風を受けながら、加藤周一著/三題噺/ちくま文庫を心地よく読む。

石川丈山、一休宗純、富永中基ら三者それぞれ、常日頃の、仏者に宿るerosの神の、そして識者の、組み合わせからなるfictionならではの妙味は、加藤周一が醸し出す深慮に愚生を引き込む。
同じく、今日の間抜けな釣り師と、タケノコを喰らう、おバカなタコと、トンチンカンなカレイの三題噺は、落語にもならない浅慮のnonfic,の噺。

本書より気になる行を少し引用する。
例えば「心」、という言葉、「心を先にするか、詞(ことば)を先にするか」などという、その「心」の意味がはっきりしていなければ、問いそのものに意味がない。しかし「心」とは一体何ですか。「意」か、「気」か、「情」か・・・。

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2015年9月28日 (月)

ある老船頭

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東方に陽が昇る。
頃合いになると、海と空は輝きを見せはじめる。
老船頭は柔和な表情を取り戻し、釣り人にとっても心の弾む一時でもある。
船上でエラコの鞘を剥いていると、’いいよー’と老船頭からの一声を合図に、釣り人は水深25mの海底目指して、オモリ80号の仕掛けを投入する。
潮流が速いのはいつもの事、船を上手に操って、船頭だけが知るポイントをゆっくり、潮に合わせると、すぐに大きなカレイが釣り竿をひん曲げて上がってくる。

数十分ごとに潮の上に移動し、何度も同じポイントをひたすら流す、俺たちはこれを’起こす’と云うんだ、と胸をはった。
これが船頭の流儀であると言わんばかりに。

余談だが、記憶に残る一事例がある。
同船した、ある釣り人が誤って指に釣り針を貫通させてしまい、激痛に顔がゆがんだ。
余りの酷さに周囲はざわつき、直ちに帰港しようとあいなったが、老船頭は鉗子ならぬ、錆びたペンチを持ち出し、無言でふるえる患指をつかみ、慣れた手つきで出血、疼痛も伴わずに、なんと簡単に抜去してしまったではないか。
余計な事は言わず、ただ眺めていたが、刺入しただけでも大変なのに、貫通してしまった釣り針そのものを切断することなく、抜去する高い技術はかなりの症例をこなさなくては、そうそう習得出来るものではない。
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昭和のはじめ、代々続く漁家に生を受けた男は、何事にもこだわらない、ただ水平線を見る時だけは、その眼光が鋭くもあり、味わい深いものがあった。
頑固一徹なまでの清らかな心は船頭の哲学だったのか、釣り人を喜ばすのが俺の人生と宣い、、多くの釣り人から慕われ続けた男でもあった。

やがて西方に陽は沈む。
他者の歓びを己の歓びと、他者の悲しみを己の悲しみとし、自らの努力で信頼という勲章を得た男だけが持つ、清々しいまでの生き様は、西方浄土でも変わらないだろう。

また船に乗っているに違いあるまい、弥陀ともども。 

                                瞑黙

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2015年8月 3日 (月)

ブリ釣りのある風景

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2015年7月30日、早朝の積丹、余別来岸港。
ブリ釣り師の多くは30代前後で、短パン、半袖に、似通った帽子、靴といった出で立ちの集団があちこちの釣り船に乗船する。
愚生には、何故同じファッションなのか理解出来ないと言うよりも異様な光景と映るが、彼らは西洋由来の釣法であろうジグ、ミノーを上手に使い分け、加えて英語圏では通じそうにないトップ、フォール、ソルトウォーターなどtechnical termsもどきが、笑い声と共に船上に飛び交う。

お仲間内ではそれがきっと共通の言語であり、ある種のsubcultureとしても、愚生には、言語を抜きにしてもアメリカ、カナダの船上では、先ずお目に掛かれない珍風俗とお見受けする。

彼らを揶揄する気は更にない、しかし全員がそろって釣り雑誌から飛び出て来たかの如きファッションは、日本人ならではのいまだ脱皮出来ない横並び主義的嗜好の表れなのか。
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嗜好と言えばミュシュランなるフランスの三流のタイヤ屋が出版するミシュランガイド誌なるものに、いまだに群がる幼稚な社会現象、フランスと名の付くものには盲目的に飛びつくのもまた、日本的原風景にして、その感性の成長しきれぬ田舎性を、あるフランスの知人は、西洋に対する東洋人の劣等感の現われと、thumb downしながらにやけるが、そもそもフランス如きに出しゃばられる様な日本では、ちと寂し。

繰り返すが、たかが西欧的釣り如きに、あたかも統一された服装と、その意味不明な英単語の珍妙なコラボレーションを彼らは生真面目に演じる。
それは大正期に最先端のファッションであったろう、着物にカンカン帽の尻っぱしょり姿が似合いの、ももひきオヤジが新調した革靴をして’シュンズ’とのたまった珍事と似る。
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では何故釣りに、英単語が用いられるのか、の問いに勝手に以下のことを挙げてみよう。
近代化という変革期に諭吉は、アメリカ、イギリスの中産階級社会を手本とし、鴎外はミュンヘン、漱石はロンドンに習った。
言葉のプロである彼らの深奥に共通して宿っていたのは、積丹の若い釣り師と同じく、’西洋’であった事は否定できない。
しかし日本人としての誇り、虚栄心が’西洋崇拝’という直接的で、露骨な表現を避けたに違いない。
文明に優劣を持ち出したところで無意味だが、愚生は21世紀の今に至って日本人の’西洋崇拝’は既に消去されたものと考えていた。
だが現実はより以上の’西欧信仰’にまで高めたいようである。

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2013年6月17日 (月)

がまかつ釣り大会のあやまち

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’獲り過ぎるな、喰うだけでいい’とアイヌの古老は言う。
なんと耳触りの良いフレーズなのか、永久不変的な智慧とはきっとこんなことを云うのだろう。
カナダではオヒョウ以外の小さなカレイは左右目で、しかも一緒に釣れる事もあり、毎回驚かされるが、北米の人達も北海道人同様に、昔からカレイ釣りを楽しんでいる。
しかし喰うだけの釣りであって、けっしてoverfishingはしない、と友人等は主張する。
あの大ざっぱなアングロサクソンにしては優れた感性である。
もしもバケツに入りきらないほど釣ったなら、ひんしゅくを買うこと請け合いである。
つまるところ、大漁/overfishingは’モラル、知性の欠如’も含意し、両者の哲学は洋の東西でありながらも見事に一致する。
大漁とは、若しも許されるとするなら、職業漁師だけだろう。

ところが日本では決められた時間内で、如何に沢山のお魚さんを釣りあげるか、その総重量を競う大手釣り具屋さん主催の釣り大会が例年、開催されるらしい。
それら釣り具メーカーのうたい文句はスポーツフィッシングの振興とある。
一見ごもっともだが、愚生には新大陸へ入植したアングロサクソンによる新式ライフル銃の試し打ちをスポーツハンティングと都合よくのたまって、州によっては野生牛のバイソンを殺りくし尽くした悪例と同じく見える。

ここで釣り具メーカーのイデオロギー批判は本主旨でない、よってこれ以上立ち入らない。

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人は地上の自然界には目を向けるが海の底はあくまで想像の域でしかない。
だが海底も生きとし生けるものの楽園でもあり、dna配列を変化させ、したたかに生き抜く生物の絶妙なバランスシステムが機能しているはずだ。
そこへ最新式の釣り具に美味しそうな餌を付けて糸を垂らしたならお魚さんが喰い付くのは当たり前のこと、だがその大会は沢山のお魚さんを際限なく釣りあげること、ただそれだけを目的としている。
聞くところ、北海道では百名前後の釣り師を乗せた多くの釣り船がカレイの狭い生息域に集中し、時に舳先を擦りそうになりながら、凄まじい量のカレイを釣りまくるらしい、これがはたして21世紀の今でも許されることなのだろうか、その限られた生態系にいかほどのストレスを与えているのだろうか。
若しかして再生産力は無限大とでも考えているのだろうか、だとしたら例えて申し訳ないが、日本海沿岸のニシン漁で栄えた、寂寥感漂う後継者のいない老漁師の仕業に似る。

加えてお魚さんに対する尊厳を決定的に欠いているのも事実、例えば雑魚、害魚などと人間が勝手が決めつけたカジカなどが針掛かりした時など哀れである。
ほとんどのカジカは船板に叩きつけられ、更には踏んづけられる宿命だ。

主催者は無制限に釣れと悲劇を演出する、そして紳士、淑女は釣り竿を持ったとたんに明日へのエチケットを忘れ、無思考なる狂人に変身し、やがて白痴化する。

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釣りに魚心と人心の静かな対話を求めたwalton卿の書に’静謐’という単語こそないにしても、それで満ちあふれていることは万人の認めるところだが、釣りを競技としてしまう、したたかなコマーシャリズムはそれを根底から否定した挙句に、空疎な結果至上主義へと誘引する。
同じく、釣りに美学を求めた開高 健、そしてwalton卿の残した人生哲学のひとつの問いであろう’静かなることを学ぶ/study to be quiet’ことからも徹底的に乖離する昨今の釣り風景のようである。

釣り人の人生観、価値観をとやかく言う筋合いのものではない、しかしお魚さんを見境もなく沢山釣りあげるということ、そして生物を質量に換算することと同じく、より大きい妊娠中のバイソンを求めて、ライフル銃を群れの中で乱射することの人間的意味に’解’を求めることは愚かなことなのだろうか。

地球環境が不可逆的に大きく変化している今、いずれこの愚かなルールの釣り大会は世界中の笑いものに成り下がるにしても、開高 健なら、なんとのたまうか。

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2012年8月25日 (土)

ブリ釣り/余別、最悪編の巻

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ソラッ、喰ってるぞ、と船頭が怒鳴る!
見ると竿先がおもいっきり引き込まれている、仕方なく起き上がって釣り竿を持ち上げる、と重量感のあるブリ/鰤特有の引き、だが南西よりの強風に古臭い小さな漁船は左右に大きく揺られ、愚生の足元はおぼつかない。

8月22日、午後9時40分、積丹余別沖、水深40m域、他船は見当たらず、北方向には時たま遠雷が水平線を照らす。
愚生はまたまた重度の船酔いを患い、内心、来なければよかったと自省しつつ、

早く巻けー、もたもたすんなー、なにやってんだー、下手糞etc

の的確なフレーズが飛び交う中、なんとかタモ網の中にブリ/鰤が収まった。

続いて、すぐ入れろの厳命が飛ぶ!

すると間もなく次のブリが掛かる、の繰り返し、

だが愚生の体内では塩基平衡が次第にアルカロージスへと変わり、脱力、睡魔、vomiti..。

こうなると楽しいはずのブリ釣りは単なる重労働でしかなく...、

やがて午前零時を過ぎた頃より、一層風が強まり風速は20m以上に、まるで台風の中の如く。
つかまる物がなければ立っておれず、真っ暗な大時化の海に落っこちそうになること数度、横なぐりの飛沫で全身グッチョグチョ、眼鏡は役立たず、流涙、鼻汁は口の中へ、と情けないお顔と相成る。

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鬼の如き船頭にも少しの情け心はあったのか、愚生の間抜けな顔をきっと哀れにおもったのだろう、そしてますます荒れ狂う海を見渡して終にひと言、

もう駄目だー、危ねぇ、竿上げろー、と大声をはりあげ、

シーアンカを上げ、船の向きを180度変えた時に横波を受け大きく揺れたが、なんとか逃げるようにして、無事帰港、実釣時間≒2時間。

船頭さんには怒られ、恐怖をあじわい、

あげくに、

そこまでしてやるの、買ったほうがはるかに安い!

バッカみたいとは天の声!!

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2011年9月29日 (木)

鹿部沖で釣り談義

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9月27日、快晴やや風が強かったが船上で現役引退された船長と愚生の二人だけでオヒョウ/はりばっと/halibutの獲る場所、方法、お味の談義はとても楽しかった。
この船長はスペイン語が堪能で若い頃は日露漁業の機関士、漁労長として、その弁を借りれば’あの憎っくき200海里法’が施行されるまで世界中を周ったそうである。
アルゼンチンの沖で鯛をトロールで獲り尽くしたこと、その港町のきかない女性のこと、ロサンゼルス沖で獲ったキングサーモンの旨かったこと、そしてアラスカ、コディヤック島沖でトロールで獲った畳一畳半もあるでかいオヒョウに話が及ぶとヒレの天ぷらがとっても旨かった等々、なかなかの趣味人であり、好人物でもあった。

愚生のオヒョウ釣りの記録はエリモで10-30センチ位、カナダではせいぜい1メートル位のもので勿論、そんなお化けの様なオヒョウには開高 健同様にまだめぐり合っていない。

ところで肝心の愚生の釣竿を揺らす様な当たりはなく、時たま小さなガヤ、カジカが喰い付く程度で本命のババカレイはなかなか釣れないのは技術の差なのだろう。
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帰路、円空作のお仏像を拝観させていただきたく有珠の善光寺に寄り道し、寺職第19代目の若和尚に無理を承知でお願いしたところ快諾してもらえた。
大よそ縦60cm、横幅35cm前後の大きさで、ご本体背側に製作年月日と円空(花印)と刻印がなされ、前屈み姿勢で穏やかなお顔立ちは柔和で慈悲に満ち、後期の突き刺すようで、荒々しく暴れ、悩み続け、悩みぬいた作風とは全く異っている。

後世の俗人はやれ国宝だ、重要文化財だのと病的なほどにある種のランク付けを好む悪癖があるが所詮そんなものは円空さんにとって俗事にしか過ぎず、その余りにも強烈な生きざま、死にざまをあえて選択した、その人として、お坊さんとして、また仏師としてその御心を目前に鎮座する木仏より読み取れない自分を円空さんに恥つつ、詫びつつも何時の日にか円空さんを理解出来るような心眼を持ちたいものである。

また大変失礼かとは思いつつ、仏門もくぐりその心得もあった松浦武四郎がここ有珠善光寺に寄り、和尚の読経を聞き、後に確か蝦夷日誌か何かの中で、それをいい加減な経として痛烈に批判しているが、武四郎関連の記録はないとの返答であり、初代、若しくは2代鸞洲(ランシュウ)住職の頃ではないかとの説明であった。

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約130年前の明治11年、シティ・オブ・トーキョー号で横浜港に着いたイギリス、スコットランドの田舎生まれの女性旅行作家イザベラ・バード/Isabella L. Bird女史は既に40歳代の小太りのおばちゃんになっていたがアシスタントのイトー/伊藤を雇い、危険を承知の上で、東京よりテクテク歩き、時にはお馬さんにまたがり東北経由で津軽海峡を渡り、函館から森町へ、そこから船便で室蘭に着き、登別、苫小牧、厚真、富川を経由し目的地であった平取のアイヌ宅で数泊、その帰路、ここ有珠善光寺を訪れた時の様子が自著「日本奥地紀行」高梨健吉訳、平凡社版/unbeaten tracks in Japanの中に詳しく書き残している。

『ちょうどそのとき、頭を剃った僧侶が、色褪せた緑色の錦の衣服をつけ射し込む日光を浴びながら静かに歩いて来て、祭壇の蝋燭に火を灯した。新たに香が寺の中に立ち籠めて、その香気は人の眠気を誘う。まことに感銘深い光景であった』
                  (日本奥地紀行、p346より引用)

その時、住職とイザベラ・バード女史の短い会話の様子も情緒豊かな文章の中に書き残しているので女史訪問の記録の有無も寺に尋ねてみたが此方もないとの事であった。文中の緑色衣服の格式からしてそのお坊さんは第9代、中野梵耕住職との説明であった。

ここ有珠の地はアイヌに対してバチェラー夫妻が聖公会堂を開いてキリストの教えを説き、その前に善光寺が浄土の教えを説いたが、そもそも歴史的には和人と称するハイブリット種よりもはるかに古く遡るアイヌ民族には日本仏教の原点にも共通する、或いは影響を与えた仏教渡来以前の素晴らしい汎神的宗教を延々と今に引き継いでいるにも拘らず、往時の幕府政策の一環とはいえ、なぜ有珠善光寺はアイヌに改宗を迫ったのだろうか、根源的疑問は消えない。

もしや、少数者のアイヌを劣った民族と解してその宗教性まで否定した上で、文化的にも自らが優位に立つと自惚れた和人が撫育などと称して仏性を説いたのであれば大きな誤りであろう。

「アイヌには先祖伝来の宗教がある、そんなもの必要ない」と怒ったアイヌもきっといたに違いない。

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2011年7月30日 (土)

ある老漁師さん

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ご無理をお願いし、漁師の刺網漁に同船させてもらう。
この船頭さん、一年のうち休むのは元旦のたった一日のみで、とにかく一人で海に出ていなければ気が済まないご高齢の寡黙な人である。
深夜に出港、数十分で漁場に到着の後、前日に仕掛けておいた刺網をドラムという巻き上げ機でどんどん引き上げにかかる。
この夏の時期はマカジカ、マカスペに混じりカレイ類ではマツカワが結構掛かっている。

そのマツカワは大きなものでは60cm前後の♀魚とペアでふた周りほど小ぶりな♂魚が刺網のほとんど同じ部位に引っ掛かって上がってくる。
こんな大物が釣竿に掛かればなんて妄想を抱きつつただ見させて頂くだけだがたまらなく面白い。

くわえ煙草で背筋をピンと伸ばした老船長は時々ドラムに掛からない大物を目の前で獲り逃がしてしまっても、また大きな横波をくらっても平然と作業を続行する姿に何十年と一人で体を張って勝負し続ける、北海道の漁師の男臭さが何処となく漂う。

3・11東北地震の時、当然ながら太平洋に面したこの漁港にも大津波が襲来したそうで漁港に停泊していた自船を沖へ向かって避難するのがあと数分遅れていたならこの船もろともやられていたと独り言の様に仰られていた。

漆黒の中、ただ黙々と続く刺網漁の後姿に命がけの仕事につく人間のみが持つ深い味わいはそうそう陸の上では見られそうもない、昨今、日本人は自信喪失、更にはさい疑的でニヒリズムにおちいり、時に未熟化してゆく中でほっとする人に出会えた。

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夕食のマカジカの三平汁は正に最高、日本人に生まれてよかったと感謝する一瞬でもある。特にマカジカの肝は鮮やかなミカン色を呈し、腫大しているのか、或いは天然の脂肪肝なのか、とにかく比類なきお味である。

病的なまでに食意地の張ったフランス人は悲しげなガチョウに無理やり不味い高カロリー餌を過食といよりは飽食させて人工的に脂肪肝を発症させる。それが若しや肝機能障害を合併しているのではという疑いが払拭できない食材にフォアグラがある。

愚生の貧弱な舌ながら頂戴したカジカの肝はフォアグラの比ではない、食感共々正しく絶品であり、第一級の食材であるのは間違いないだろう。
「ウメーゾ、喰ってみろ!」と朴訥な一言は大いなるプライドの裏返しでもある。

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暗闇の中、左舷側上方に設置された照明が煌々と照らす中、時おり飛沫と一緒に浮かび上がる船長の顔の輪郭は一瞬、レンブラントの光の部分を彷彿とさせ、ヘミング・ウェイ/Hemingwayがカリブの海に登場させた老漁師サンチャゴを想起させるには充分であった。

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2011年2月14日 (月)

名もない温泉

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流れ込む無色透明の自然湯から析出された湯の花から勝手に想像するに鉄分、石灰、珪酸を含み、若干の硫黄臭は酸性なのか、その湯に浸かりながら地元漁師さん等と釣り談義もまた良い。

恵山御崎漁港に面した無看板の温泉小屋から対岸の青森尻屋岬の眺めは正に絶景でカナダ国境沿いから南方に眺めるシアトルに似ており、漁村に漂う硫黄臭は南十字星を眺めながら浸かったrotoruaの露天風呂を彷彿とさせる。

先ほどまで使っていたサクラマス釣り用のマスシャクリ仕掛けに談が及んだ所、同湯していた地元の老漁師も会話に加わり、
「俺等はテンテンと言うんだ、戦後、この町の花田民乃丞(民之丈?)という人が刀掛けの鹿の角を用いて造り、その結果が良かったので皆真似たんだ」と教えていただく。

聞くに、釣り竿を用いず腕の上下運動だけで行うそのマスシャクリ仕掛けに隠された臭い、形状、動作、色彩等は究極に凝縮されたオリジナリティの塊である事、また恵山の漁師等は各々自作し同じ物は一つとしてない等々楽しい釣り談義であった。
アングロサクソンが考案したとされる現代のルアーに比べてもはるかに深淵で、尚且つ芸術性を併せ持つ一品に日本人ならではの英知、技が見て取れる。

このマスシャクリ仕掛けは従来、日本海沿岸の何処かの漁村で考案されたとも噂されていたがひょっとして恵山御崎が発祥の地であるのかもしれない。
又、この仕掛けにやや重量感を持たせると南半球のヒラマサ釣りにも充分対応できるのではないかと一人合点がゆき、来年の宿題が一つ増えた。

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漁港に面したこの名もない温泉も夕刻になると地元の老若男女が一つしかない小さな湯ぶねに浸かり、暫し交流の場になるらしい。
今でも北海道の片田舎にこんな素朴でゆったりと時間の流れる所がある。我々現代人が忘れてしまった大事なものがこの小さな漁村には残っている、これが本来の秘湯なのかもしれない。

自利があたり前になってしまった今、世知辛く変性してゆくのが近代の宿命とは思いたくもないが、ひょっとして日本人はまだ失っていないかもしれない利他の心はこんな所から生まれたのか。

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2010年12月16日 (木)

キングサーモン釣り大会inカナダ

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口には出さねど、我こそが世界一だと云わんばかりの、日本風にたとえるなら’はったりをかました’風貌の釣り師ばかりがport alberni郊外のロッジに集まった。
やはりハリバット(オヒョウ)釣りなどと違い、キングサーモン釣りとなると、どこかマニアックでしかも偉ぶっている風にもお見受けするお方が多いようにも思えるが気のせいだろうか。

辺りにはクーガ(山猫)がいると脅されているので夜は出歩かず、お酒がつい入り過ぎてしまう。
その勢いもあって晩飯時ご一緒したドイツ人、スペイン人、そして地元カナダ人等とサーモン釣りの話題で盛り上がりった。
安酒ながらも飲兵衛同士は東西と離れていても会うと楽しいもので、必然的にお互いが競争心を抱く。それが次第に相手国には決して負けるわけにはいかないという間抜けなナショナリズムが夫々に芽生え、翌日は急遽、国家の威信をかけた懸賞金付きのキングサーモン釣り大会に変身しちゃったからアルコールとはたいへん愉快なものである。

出来上がったルールは簡単、各々が$1ずつ出し合い、一番大きいお魚さんを釣った人が総ての懸賞金を分捕る、所謂ヒットラーも大好きだった優勝劣敗方式だ。
ただし敗者に隷属の義務、罰ゲームもなく、当然釣りガイド並びにボートは別々である。

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余談だが、やがて酔いがかなり回り、お互いに釣り自慢になった勢いでスペイン人の若くお美しい釣り師が「私、ナマズ釣りのワールドレコードを持ってるわよ!」と自慢げに話された。
スペインの何とかいう所の釣り師なら見向きもしない薄汚い沼にボートを浮かべ、釣り針に腐ったイカを一匹ままつけて垂らしておいた所、それに食い付き、径3インチの竿が折れちゃったが数人でなんとか船に引き上げた、とっても重たく胴体に両腕を回しても届かなかったと言い、その写真も見せてもらったがまるで子供が太い丸太棒に抱きついているようにも見え、到底お魚さんとは思えず薄気味悪いお顔であった。

昨日、日本では絶滅したといわれていたクニマスが原産地、秋田の田沢湖ではなくその稚魚を移入、放流した山梨の西湖で発見の吉報を耳にし、ついヨーロッパの巨大ナマズが頭をよぎった。

クニマス、巨大ナマズともに偶然が重なり、しかも汚染が進んだ結果の人間の悪行故には違いない、しかもスペインの沼は既に埋め立てられ、秋田の田沢湖はphが下がり過ぎてとてもお魚さんの棲める環境ではないらしい。

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ちなみにカナダのキングサーモン釣り大会の結果、なみいる釣り師の中でぶっちぎりの優勝を成し遂げ、懸賞金$8を分捕った輩は時差ぼけ、二日酔い&船酔い等重度の合併症を患いながらも同行した初海外旅行の友人で、なんと生まれて初めて釣竿を持った男であった。

その友人の顔面蒼白、鼻孔からの嘔吐も伴った症状をジャパンスタイルと地元のガイドに笑われながらの優勝にゲルマン、ラテン、アングロサクソン等の酷く傷ついたであろうそのプライドを思うと今でも笑いを吹き出してしまう。

こんな釣りもまた楽しい!!

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