2009年1月 3日 (土)

1ドルのジャズライヴ

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今でも、不思議なライヴを思い出す。
三浦和義のロス疑惑事件2年後の1983年、1$がまだ240円前後と極端な円安の頃であった。
LAのとある薄汚い、安酒臭がただようハーレムの裏通りの様な貧民街にヒスパニックは当時まだ殆どおらず、黒人のだらしない酔っ払い、売春婦、薬物中毒、エイズ患者らしき者らがたむろする雑踏の中を夜、一人でふらふら歩いていた時の事だった。

角を曲がった薄暗い、人通りの少ない路地奥で、中腰でゴミ箱にもたれながら一人の黒人がスウィングしながらラッパを吹いていた。

近づいてみると、ジーパン、シャツ姿の男性が持つトランペットの金メッキは剥がれ、所々が凹み、奏者は最後まで愚生と目をあわす事もなく、また立ち止まって聞くギャラリーもおらず皆、無視したように通リ過ぎて行く。

空きカンも、賽銭箱もないので、1ドルを差し出すと無造作に受け取った。

あたかも、薪能の如く、フレーズのつなぎめの’間’を見事に作り、ハイポジションの絶妙な響きが空間にさりげなく調和している演奏で、喩えるなら能楽師が無私の心で舞うが如くであった。

ニューオリンズの訳の分らないミックスしたジャズ、シカゴの騒々しい、マンハッタンの気取った、時には胸糞悪いジャズともどこか異なる。

押付けがましくなく、さりとて脂ぎっておらず、余計な装飾をすべて取っ払った、今にして思えば、聴かしてやる、聴いてくれ、となってしまった現代ジャズに対する強烈な批判だったのか。

それまで聞いていたジャズがジャズモドキになった瞬間でもあった。

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ホテルに戻り、顔見知りになったフロント、コンシュに伝えると皆驚いたり、呆れ返っていたがその当時、強盗、殺人は当たっり前、警察もあまり巡回出来ない無法地帯、まして夜など誰も近づかない所だと知らされた。

超一流のテクニックがさりげなく顔を出し、リアリズムに満ちあふれていたが反復練習だけではとうてい習得出来得るものではない、身震いする様な感性を一体どうやって身につけたのか、今でも不思議である。

その後、ヨーロッパを含めあちこち行ったが、それ以上の演奏にはまだ出会っていない。

世の中のとてつもない広さ、大きさを実感させられた一瞬でもあった。

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2008年12月 3日 (水)

ビル・エヴァンスと西行の枯葉

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ヘロイン、コカインが最後まで付きまとった、ビル・エヴァンス、しかしながらそのジャズピアノは今なお、世界各国の奏者に大きな影響を与え続け、その「枯葉」も形を変え、新ヴァージョンが次々と発表されている。

西行の句に「枯葉」という単語はそれほど用いられてはいないが、
平安時代の大坂を詠んで、

   津の国の 難波の春は 夢なれや   
   蘆の枯葉に 風渡るなり        <新古今より>

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直線的に突き進む西洋、片や、変化なく、循環を良しとする東洋。

西行を後世の人は矛盾の人とも言っているが、優れた芸術は聖と俗の深い矛盾から生まれるのか。
矛盾する自己と、自然を深く眺めているが、それを梅原 猛氏は天台仏教の止観の世界観だと言っている。

白洲正子は自著「西行」の中で、空気のように自由で、無色透明な多くの謎に満ちている人と表現している。

「枯葉」の中に輪廻の思想が見え隠れしている東洋、一方、アングロサクソンが勝手に世界中に撒き散らした’グローバリゼーション’なる猛毒を含んだ単語同様、徹底的に突っ走る西洋。

21世紀はこの解毒効果だけではない循環の思想が断然面白いはずだが。

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2008年8月29日 (金)

三島と開高 健のコラボ

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開高 健の22歳はどん底だった。

著書、「一言半句の戦場」のなかで、以下のように書いている。
食い物がないってことはつらかった。
所詮大学とはラテン語で’暇つぶし’と言う意味でせいぜい顔をだしたのは試験の時くらい。とにかく食うのだ大変な時代だった。

おちこぼれ青春無頼派は就職難、おまけに子供ができて、結婚して・・・・先が全く見えなくなった。

とにかく食っていかなくてはならない、アルバイトに精を出す、育英資金はドライミルクに化けた。やがて大学を終え、寿屋(今のサントリー)に就職する。

やり出したら止まらない、トコトンまでやっちまいたい、盃のフチをなめたら底まで飲みほしたい,その代わりみかん箱を机代わりに使うような家に親子3人、一本5円の豚のシッポばかり食っていた。これをぶつ切りにしてごぼうや生姜と一緒に煮込む、なかなか美味しい。

ある意味、面白い時代であった。
同じ感性でもう一度やれというなら逃げるけど、別の感受性を与えてくれるなら、もういっぺんあの時代をくぐってもいい。

愚考の連鎖つまり、時には自分に追いついたり、追い越したり・・・途端にどっかに消えたり、だから今だって矛盾だらけ。

以上、文豪はあえて、修行の足りない、できそこない坊主の説教を
よそおった小文も書いている。

だが、
「父を疑え、母を疑え、師を疑え、人を疑え、しかし、疑う己を疑うな」と青年時代の未熟さを真摯に受け入れつつも、怖ろしいほどの感性を含んだ眼光で人のエコロジーを洞察していた。

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三島由紀夫が市谷駐屯地に、安ホテルの門番に無理やり白鉢巻きなのか、手拭いもどきを巻きつけた様ないでたちで討ち入ったのは愚生が学生時代の昭和45年11月25日であった。

バルコニーに立ち、読み取れない檄文を垂れ下げ、実戦とは縁のない留守部隊を相手に演説を開始する。

ところが三島由紀夫の演説はマイクを持たなかったので良く聞き取れない、対する自衛官らは私語を始め、演説に耳を傾けるものはなかった。

苛立った三島由紀夫は「静聴しろ、静かにしろ!」と叫ぶ、

しかし聴衆からは「聞こえねえぞ、馬鹿やろう!」と罵声が、

三島由紀夫は蒼白となり
「諸君の中に俺と一緒に起つ奴はいないか?」と、やがて、

「俺は死ぬんだ、憲法改正の為に起ち上がらないという見極めがついた」と、

最後に皇居に向かい正座して、
「天皇陛下万歳」と(猪瀬直樹著、ペルソナ三島由紀夫伝)。

寂。

当時、NY-Times東京支局長であったH Scott-Stokes著、「三島由紀夫 死と真実」には盾の会の隊員が分列行進する様は、まるで’一団のデクの坊’と書かれてあり、

司馬遼太郎は自衛官の発したヤジの中にこそ正論ありとしている。

三島由紀夫のみこころは精神病理的に、「自己愛性人格障害」と診断されるらしい。

なにより万歳されてしまった天皇にとっても迷惑千万であったろう。

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この二人が彼岸ではなしに此岸にいたらなんて考えるのは止す。

同時期、脈絡もないこの二人の天才の時間はあまりにも短かった。

1970年代の擦れたウッドベースとギター、ラッパのコラボジャズを聞き、安酒を少し口にすると何故か、残渣としてのみこの二人は現れる。

もしもが許されるなら、
三島由紀夫から’あまり身に馴染んでいない借り物のイデオロギー’を、開高 健から’絶対という大嘘’の為でもあった’ワインと美女’を取っ払ってみたくもなる。

真夜中にブルーノート旧盤を聞きながら、つい馬鹿な事が頭をよぎった。

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2006年10月 8日 (日)

秋吉敏子さんに乾杯

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アメリカ国立芸術基金ジャズマスター賞受賞、うれしい事ですね。

世阿弥の’花伝書’に感化され、又、晩年に書かれた宮本武蔵の「おおよそ、兵法というものは、武士の規範云々」で有名な’五輪の書’にも影響を受けその後のジャズ演奏家として、本場の脂ぎったノリに日本特有の感性を加えた、独創性豊かな演奏が評価されたらしい。

NYで現地男性と結婚しているとは云えども、東洋人女性が活動する事は、差別、蔑視の中で大変な事であり正に孤軍奮闘したらしい。

デュークエリントンの音楽に、人としての歴史、黒人としての歴史を学び、そこから日本人としての歴史を自分のジャズに組み込む事により新境地に挑戦したみたい。

それが、小野田寛郎氏が帰還した時にタイムマシンに乗ったサムライと同時に日本武士道と戦争の悲惨さから自分のアメリカでの演奏活動にシンパシーを感じ名曲’孤軍’を発表する。

また、水俣病に侵された町を題材に’インサツ’、’ミナマタ’他を発表する。

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秋吉敏子はこうも言っている。

「私という無力な一音楽家に出来る事は、其の事を記録に残す事である」、と・・・。

けだし、名言である。

愚生にとり、本年最大の喜びである。

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2006年9月26日 (火)

聞きたかったチックコリア

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チックコリアが日本公演を終えたとの事、是非とも再度聞いてみたかったジャズ演奏家である。
何分にも下手なお魚釣りに忙しく、時間を有効に取れず残念。

マイルスディビスが変化しつつある時に加わった事もあるが、然し何と言ってもブラジル音楽との出会いが我々ファンにはたまらない贈り物となった。

「ジャズはストーリーであり、基本は人生をより心地良いものにする為のものだ」なんて言っている。
渡辺貞夫氏も又ブラジルのサンバを取り入れているが「人生はハッピーじゃなくちゃ」と同じフレーズをのたまっているが。

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2006年7月29日 (土)

グランドゼロ

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どうやったなら、大きなお魚さんを釣り挙げられるかと考えながら資料を整理していると、懐かしい、よく通ったニューヨークジャズで名を馳せているbirdlandのパンフレットが埃にまみれて出現。

2000年12月、
奥さん同伴でテキサス州サンアントニオでの学会の出席後、シカゴ経由で何回も通ってるニューヨークに遊びに行った際貰ったもの。

ジャズライヴ通の間ではよく知られた所、時々そこで実況録音された曲が日本でもtv,fm等で流れている。

その時は確か、マンハッタンはミッドタウンのとあるコンドミニアムに宿を取った。

アンティークショップ巡り並びに、よく行く所の一流のジャズライヴ演奏を聞かせる、blue note 、birdland辺りが一般の人には名の知れた所だった。

ジャズには人一倍、拘りがあった。
貧乏学生時代によく、当時のジャズ喫茶とやらに悪友らに連れて行ってもらったが、其の頃聞かされた曲に皆さん酔いしれていた様だが自分は何の感慨も無かった。

その後、
ジャズの良さは日本人ではなかなか理解困難であり、特にライヴ演奏でなければ全く面白くなくなった。

録音された曲は、
愚生にとっては丁度、時代遅れの絵画、アートと変わらず、冷めたコーヒーにたっぷりのクリープと砂糖を入れて無理やり飲まされている様なものになってしまった。

従って、今でもジャズに関するcd、dvdは持合せてない。

悪趣味を披露する気など勿論無いが、

シカゴの古汚い、危なっかしい、小便とビールの匂いの交じり合ったジャズ、

ニューオリンズの軒並み連なるフランスの影響をも受けた色んな年代、色んな民族性を基調とした陽気な音楽と人種の混じりあったジャズ、

とあるマンハッタンの薄暗い、あまり綺麗じゃない、小さな一室で神経質なまでの研ぎ澄まされた繊細なラッパとタイコだけのジャズ等々。

そこには、
才能豊かな演奏者と客とのやり取りがあり、間違いがあったり、頑固で個性的な、損得抜きの強烈な自己主張があり、そして、何よりも驚くような、身震いする様な、新鮮なアドリブが山ほどあった。


9ヵ月後の2001年9月11日、
ニューヨークがテロに見舞われる。
グランドゼロ近くの親しくしていたアンティークショップの親父らにメールを何回も送ったが返事はどれも返って来なかった。

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